あけましておめでとうございます、というか、寒中お見舞い申し上げますな1月終わり、思うところあり美術館にいってみるなど。
東京都現代美術館で「アートと音楽」という展覧会をやってます。来週末で終わりということなので、そういえばということで久しぶりに足を伸ばしました。
結果、超絶かっこいい!とおもっていた池田亮治さんの作品をまた観れたのが収穫。数年前に同じ東京都現代美術館でやっていた展覧会に衝撃を受けた記憶がよみがえりました。
とはいえ、思うところありいった美術館ですが、そこで思うところは、美術館はやっぱり音楽を鑑賞する場所ではあまりないな、、、ということ。そういうことをまず考えます。
一般に音楽が時間によって得られる芸術である一方、絵画は空間によって得られる芸術であるためがまず思い当たること。もちろん、音楽はその音場・音場によって音がどう感じられるか、また、絵画は時を経ることによって生じる変化によって得られる事柄があることは事実。
しかし、美術館では、主に観るものを納める箱として機能しているため、Aという部屋でBという音楽を、あるいはXのとなりにはYという音楽を、という展示がなかなか難しい。また、それを実現しようとすると防音室をいくつも作るのか、とか、ヘッドホンを使うなどになって、美術館の建築形態では対処できない、どうもぎこちない感じになってしまうようにおもいます。
言い換えると、絵画なら、見れば見えるし目を閉じたら見えない、一方、音って、耳を塞がない限り文字通り耳に入るんですが、意図して耳に入れるというのが大変だなぁと思うのも、展覧会を通じて感じたことの一つです。
そういう意味では、音楽を空間に釘付けにするという試みがすなわち芸術なんだろうということが考えられます。その結果、視覚的に興味深いのは、音の絵画化や新しい楽譜の試みだったりしました。
現代においては録音技術があるために、音そのものの再現は決して難しくはなくなってきています。しかし、楽譜といった記号にもどづく音楽の伝達は、指示している音と指示された結果が果たして一致するのか?というのはまた別の次元の話であり、そもそも音楽というモノが過去から未来へと受け継がれている事実に対して、実はすごいことなのではなかろうか、という気持ちになります。
デザインの観点からは、図面やデータに基づいてモノが出来上がるというプロセスに似ているな、ということ。例えばコンピュータのデータはデータを再現して記号を認識するという意味においては同一ではありながら、データが物理的なモノになる、例えば年末に印刷するような年賀状というのは紙やプリンタといった印刷状態が異なれば異なったものになります。
同様に、音楽も構想するということと再現するということについては全然別の次元のアートが存在するし、その違いに対して新しいアイディアや観念が生じることに面白さがあると考えます。
だったら指向性スピーカーや音場のコントロールによる空間と音との関係でできる音の世界を作ってみたいなぁ、などと妄想する展覧会でした。また、音楽と映像などが関係する作品は空間がないとできないのが痛し痒しでそれに適した芸術館的な公共建築を期待しちゃいます。
そもそも芸術としての音楽とアートとの関係を考える、なんてことは日頃の生活をしている限りほとんどあり得ないことなので、そのトリガーがとして展示があるだけでやっぱり新鮮な気持ちになりました。
2月3日までなので、お時間あるかた(ほんとに”お時間”が必要なので)はオススメの展覧会です。
で以下は、おまけみたい、ではありながら、!、と思うことです。
さて、アートと音楽の展示と併設のMOTコレクションという常設展示の方にも足を向けました。特に何があるとかは考えずに、ふーんと思いながら作品をつらつらと見ていくスタイル。なので、おお、亀倉先生のポスター作品がたくさん展示してある!という素直な驚きがあって存外に楽しめました。
その結果、一般に何百点もある作品について、作品そのものを観たことがあればあの作品かとわかる、とか、観たことがなければ作品を解釈してみるということになります。
が、ごくまれに、すれ違ったあとに、ぞわぞわする作品に出会うことがあります。
それは、海辺のスケッチ。
個人的には、いつも風景画はどこかの風景だろうと思えばどこでもそうみえるように、とくに引きつけられるかといえばそうでもない。
その絵は海辺とはいえ、空と砂浜と柵が描かれているだけの絵。ではありながら、ぞわぞわと、これは気になると振り返ってタイトルを見るとそれは金沢の内灘でした。
つまり、私はそれを見たことがあるという驚き。
当たり前といえば当たり前なんですが、画家は特に面白くもない柵を描いたのか、そして思い出される、かつて柵を見ていた私の砂浜のぐにゃりとした踏み心地と風と光の感覚。
慌てて手に取ったパンプレットを読むと、描いたのは新海覚雄さんというかた。芸術家の長男として東京に生まれて、絵画のコンクールに出品。静物画などを描いていたけれど、だんだんに社会派の傾向を強めていったそうです。
作品の舞台である内灘には1953年に赴いており、”生活を守るために「おかか」とよばれた地元の女性たちが米軍の試写場設置反対闘争に参加する様” を描いた一連の作品一枚だそうです。
そういう記録を読むと、なぜ描いたのかとう感覚はなんとなく理解できるぞ!という思いでいっぱいです。
以上の経験から、私はなぜ美術館に行くのか?ということについて、今まで何となく勉強のためのとか、小難しいことを考えるためとかありましたが、そんなに数はいっていないけれどやっぱり、!、という感覚と訪れることがまれにあるぞ、という期待があることが最近自覚されるようになってきました。
しかも、この自分の直感は面白いもので、以前、森山大道さんの写真展を見てたときも同じ気分になったことがあります。
森山さんの写真はアレ・ブレ・ボケという荒々しい作品が多く、また、例えば新宿といった都会の飲み屋街や高速道路のドライブインなど、人が交錯しつつ猥雑な生活が写真がおおいです。
その写真がかっこうぃいなとは思ってはいたのですが、別に個人的に交錯する事柄はないだろうと思ってました。
が、写真展で作品を見るにつけ、どうもそわそわする感じがして、森山さんのプロフィールを見てみると、幼少時代に北陸に住んでいたことあるという事実を発見。
感性の根本の部分で交錯する部分がやっぱあるんじゃなかろうか内省する驚きを感じたことがあります。
個人的には、これらの経験を通じて、やっぱり自分の直感はあながち悪くない!、という薄弱な根拠であまり意味のない自信に磨きがかかる年頭の今日この頃です。