2024パリオリンピック閉幕と映画とハリウッド

上映
オッペンハイマーを見た映画の上映ポスターはこんな感じでした

先ほどパリオリンピックが終わりまして、朝起きては速報の結果を見ては感心しきりの約2週間でした。リアルタイムでちゃんと見たという点では、男子マラソンの赤﨑選手の楽しそうなランとゴールが印象的。一方で女子マラソンの最後のスペシャルドリンクお渡し失敗はあの距離だとツライとおもいつつ、鈴木選手も清々しいゴールだったかと。おつかれさまでした。

さて、この裏で関連づけられそうな映画いくつか、(ナポレオン、オッペンハイマー、東京オリンピック)を見たので感想を。

ナポレオン(2023)

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リドリー・スコット監督、配信で視聴。冒頭、断頭台のシーンからスタートしまして、パリ五輪開会式での血みどろ演出と関連して、どうも彼らは断頭についてはそういうもんだというか、ある意味好きなんだろうなとという認識を新たにした次第です。劇中でも開会式と同様な風刺劇が描かれており、古典的なエンタメであろうと理解できます。眉は顰めそうですが。

さて、個人的にはナポレオン自体詳しく知らず、ロシアに攻めて負けて島流し、ぐらいの認識。その私生活では、奥さんジョセフィーヌの存在が大きかったことが映画では描かれます。ただ、個人としてのナポレオンと公人としてのナポレオンの揺れ動きがジョセフィーヌとの関係性と通じて描かれているのかなとも思われます。
具体的な公人としては古典的な権力統制手法である婚姻とそのための子作りというのななんとも切ないものだなあと。結果離婚したりと革命の革新性から後退するとともに、2人の在り方も後退するような。

個人と公人という問題は今でも当然重大。今年は米大統領選挙がありますが、フランスから思想が移植されたアメリカ政治体制がある意味では衆愚によって毀損させていくだろうというトクヴィルの観察からの推論がありますが、個人の資質によらない政治体制が良いのか、ナポレオンのような人気にある英雄的な存在を頂くことがよいのか、いずれにせよ個人のポンコツさと公人としての役割は別物としてナポレオン以降は整理されているのかなと考えています。

オッペンハイマー(2023)

オッペンハイマーと風が吹くとき
オッペンハイマーと風が吹くとき

クリストファー・ノーラン監督、地元で気を吐く名画座にて鑑賞。広島・長崎の原爆の日に被せる期間で上映するのと、めちゃ怖くてもう見たくない記憶のある「風が吹くとき」も上映。平和の祭典の裏でこの時期は原爆や終戦の季節でもあります。

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↑まだ見れません

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こちらの映画も、ナポレオンと似た構造があって、その時代の現象を、歴史上の人物を通じて描くもの。つまり、これは大河ドラマ的であります。オッペンハイマーは、核以前の世界と核以後の世界を分つ一つのイベントとしての核実験と一つの頂点として、陳腐な表現で言うと栄光と挫折が描かれています。

ただ、ここは個人的な映画論になりますがノーラン監督らしい、時間軸のコントロールが映画全体の構造をより際立たせているように思います。原爆開発という歴史的事実について、時系列に事象を並べるのではなく、オッペンハイマーを描くための核心に物語の針を合わせるための手法かなと捉えています。

じゃあその核心はというと、オッペンハイマーの善悪については明確には描かれませんが、愛人の死、悪役の配置、アインシュタインとの会話によって、歴史において役割が舞い込んでしまった人物として描かれています。

この映画は一方で、当初日本公開が未定であったり、原爆投下シーンが描かれてないなどの報道を耳にしており、どういうことかと身構えていました。結論としてはこれは日本パートのシーンを描くのは難しいのではないかと感じます。オッペンハイマーは原爆投下を止めることができたのかというと、できたとも言えるしできなかったとも言えます。止めることができたとすると、例えば、ケンブリッジ描かれたリンゴを捨てなかったとか、そこまで遡ったポイントオブノーリターンががありえます。我々が知るような爆心地の状況が映像を圧倒するのことが果たして適切なのかというと、本作においてはそうではなかったと。

論理を扱うある意味では公人たる科学者としての氏と、奔放だったり野心だったり事態への畏れだったりという個人としての氏の心持ちがどうだったのか、これはもうわからないけれどそれを描くための材料を並べて見せた映画だろろうと思います。

東京オリンピック(1965)

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市川崑監督、配信で視聴。デザイン研究でオリンピック関連書籍を読むなどして、これは一度見ないといけないと思いつつ、あまりの長さと、それなりの時代テンポの映像に手をこまねいていましたが、パリ五輪の最終日を迎えてようやく全部視聴。

当たり前だけども全部の競技を公平には扱えないので、一応映像になったなという競技と、これこんな尺使うのという競技があって面白い。で、事後にこれは記録映画だということを記事で読むにつれて合点が行ったのですが、街が映るような競技は意外と尺があるように思います。具体的は競歩、自転車、マラソン。自転車は八王子の田舎道を走るシーンがあり、藁葺き?茅葺?の住居の側を自転車がビュンビュンはして行ってギャップが大変おもしろく思いました。何と、総延長195キロも走ったそう。

あと、近代5種も紹介されていたのですが、パリでは佐藤選手が銀メダルということで伏線回収、また、射撃も紹介されてましたがこれも無課金おじさんでやや伏線回収。なお、当時の射撃もガジェットつけてるので無課金すごい。

で、この映画は、前の2作と違って、60年前のイベントを記録した60年前の映画ということ。過去を振り返って未来の人間が想像したのではなく、同時代人たちが同時代人たちを捉えた映像で構築された映画です。

だから古臭いのか?というとそうではなく、私が知らないある世界を描いたある意味SF的にも見える作品ではないかなと思いました。また一方で、オリンピックという普遍的なスポーツの興奮や応援の楽しみ、国際性、そして平和の祭典としての理念は今見ても当たり前ですが色褪せないですし、選手の活躍や悔しさといった姿はグッときます。
そしてまた、ニュース映像とは異なり、シーンごとに強さがあるのと、私の記憶にある限りにおいては、選手へのインタビューや選手のモノローグは使われておらず、見るものに選手の脳内を想像させるような演出があるように思います。(一部チャド選手の描き方はまた違う演出手法が使われています)

このように時を経ても飽きない魅せられる映画というのは製作陣そんなところまで考えていたのか?すごいな!と素直に感心した次第です。最後の閉会式の伝説のわちゃわちゃもパリ五輪の閉会式を見るとなんとモダンなイベントだったんだろうなと感じました。これはいいもの見たなという。

事実ということ

以上3本についての感想ですが、いずれも事実を題材にした映画でした。ただ、ナポレオンはある記事を読むとかなり監督の創作があり、史実とは異なるそうです。とは言え、ナポレオンがいたということと大まかな出来事はあったのでしょう。

で、今まさに終わったパリ五輪を映画として記録編集しようとした場合には、どのように編集するのか、私だったらかなり悩ましいだろうなと考える次第です。時間が近すぎ、あまりに生々しすぎる出来事であるため。

それなりの昔で実際どうだったのかわからない事実であれば、創作性や作家性の余地が大いにありますが、オリンピックのような厳然たる事実がゴロリとある場合に、どのように編集するか。また一方で、スポーツの結果は時の運というか、想定通りにはいかないだろうと言えます。

それを飲み込める構想が事前にあって映像を残し編集したのが市川崑監督の東京オリンピックかなと思うと改めてこれはすごい映画なのかも、感じるところ。

一方でたらればでいけば、実在のナポレオンやオッペンハイマーが生活し行動しているさまをドキュメンタリー的手法で描くためにどのようにカメラを据えてどんな映像を押さえるか、という映画表現のアイディアに思い至り、その観点で見直してみてもいいなと考え始めるところです。

ところがところがでいくと、今度のロス五輪はハリウッド全面支援ということですので、事実を超えた、SFVFX大スペクトラムな五輪になっているかもというアイディアも一方で想起されるトムクルーズさん出演の閉会式でした。

トム・クルーズやレッチリ、閉会式盛り上げた 五輪はパリからLAへ