研究室で使っていたMacが起動しなくなるトラブルに見舞われました。よくあることとはいえ、このタイミングで!?という憤りを感じなくはないですね。
急遽、別のMacにつないでデータをサルベージ。どうやら、ハードディスクがきちんと読めなくなってしまったようです。物理的な欠損というよりも、システム側のデータの読み書きがうまくできなくなってしまった模様。
作業を止める訳にはいかないので、あっちのマシンやこっちのマシンを行き来し。ところが、それぞれのマシンのアプリケーションやらの設定がバラバラなので、データのやり取りがうまくいかない。特に、フォントが入っていないことが多いので、困る。
まあ、いろいろ思うところはありますが、結局ハードディスクをフォーマットし直して、だましだまし使うことができたのでよしとする。
話はかわりますが、コンピュータのデータが飛躍的の大きくなったのはここ最近ですが、人間は結局どれくらいの情報を生産し、消費し、そしてレコードしているのか、気になるところ。なんでもかんでも後生大事にデータをとっておくたちですが、後世に残っていることなんて、ほとんどないだろうと思う。それでも、先進諸国の産業なり生活なりは、ほとんどデータを処理し伝達しまた処理するということで成り立っているように推察することもできる。そのようなある意味では、実体にそのまま変換することができない情報量という媒質で満たされている世界で生きているのだろうと考えるのです。
人類というものは、脳を肥大化させ、ある意味では情報を喰らって生きることを業とした生き物であるということが言えると思います。デザインでは、その情報を整理するという営みを行うことであるし、また、未だない情報を組み合わせる営みであります。情報についての「量的」情報を減らすことが、デザインの原理として位置づけることができれば、デザインの論理の新局面になるのではないかと、思いつきました。