東京都現代美術館へ。乗り換えなしで最寄り駅まで行けるのでしばし訪れます。
お目当ては、スクニク子さんの展示。Make:Japanでみて衝撃を受けたので。トランスフォーメーション展という企画の一つで作品を展示してました。
正直、破壊力ありました。女性のキモチはあんまりわかりませんが、タイヘンそう、、、というのはひしひしと。それでモノをつくってしまうというパワーが、草食化している昨今、火をつけられるしだいです。
なぜつくりたくなるのか?これは不思議でしょうがないのですが、どちらかというと衝動。合理ではなく、不条理が駆動力になる事がしばし。みんなそんな不条理でできていたら楽しいのに、というのは個人的な信念として隠し持ってます。
さて、他にも展示ありまして、おもしろかったのは単にブロックを積む、という作品。これは、オランダアート&デザインの新言語、という企画の一つ。みんなで参加できるので、自分のブロックもそっとおいてみました。
すでにたくさんのブロックがおいてあり、もはや一つの生態系が出来上がりつつあり、興味深い。特に、なぜかタワーを建てたくなる心理というには何なんだろうかとおもいつつ、自分もタワーの一員に。もちろん、この後に続く人も現れて自分のブロックは埋もれていくのだとおもう寂しさもありつつ、妙な清々しさ。死屍累々、おのれの屍を超えてゆけ、という感覚でしょうか。ちなみに近くから東京スカイツリー、見えます。
さらに、泣きそうになる作品としては、山川冬樹さんの作品。常設展示にあります。父上が山川千秋さんというフジテレビのアナウンサーだったそうです。で、その生前の声の録音を作品にしているのですが、ニュース原稿を読む声から日常生活での肉声を時系列にそって聞くというもの。予備知識なしにみた(というか聴いた)のですが、1970年代から1980年代年代の特有のテレビ的なにぎやかさと、自分が死んでいった後の世界への無力さ歯痒さとう背離を、声、というメディアによって感じ入るわけです。
その声は、記録であって、何ら物語るわけではないのですが、作者の作家性による編集操作によって、対峙するわたしたちに届けられたのだと考えることもできるし、一方で生前に録音をしていた、ということそのものが作家性であったともいえるし、ここにも意図を超えた不条理が感情の移動にかかわっているのかなと感じました。
などと、お腹いっぱいになる展示たちばかり。その上で脈絡無くおもいつくのは、少なくともわたしについてはスプートニクの子供みたいなものかということ。(似たようなタイトルの本があるらしいのですが、読んでないのであしからず)
スプートニクというのは、ソビエト連邦、現在のロシア(もうソ連といってもわからない世代が増えてきつつあるのです!)が打ち上げた最初の人工衛星。この人工衛星はなんのことはない、たんなる電波をだしていたのですが、その電波受信によって発する音によって、ある人々は歓喜したし、ある人々は恐れおののいたそうです。
とはいえ、なんでロケットを打ち上げて人工衛星を実現したかったのかについては、合理的説明はいくらでもできるのですが、結局やってみたい、という駆動力が核心だろうと勝手に考えてます。それを実現するためには、たくさんの人がかかわったのですが、それにしてもブロックを積むように、高みにのぼる一つの要素になりたいという素朴な感情からのきもします。
そういう結果を、むしろ音によって感じることというのは、なんとも遠回りのようでもあり、永遠のようでもあり。技術やデザインが向う先きはそうあったらいいなとおもい技術を指向するのがどうやら自分のようであり、またその文脈の子供だとも勝手に思いつく次第です。
そして響くにはスプートニクという不条理な語感。