ランダムと退屈

かなり間が空いてしまいましたが、何を考えていたかというと、情報について。そして某社のSさんに、コミュニケーションが人間の目的なんでは?という話をうかがい、ずっと頭に。何か答えが出た訳ではないけれど、電話で友人と話をしてコミュニケーションについて思いつくことがあったのでメモです。

コミュニケーションの目的について、それはランダムネスの扱いだと考えることができます。

まず、ビジネスにおけるコミュニケーションには、正確な伝達が望まれ、それにはランダムネスが排除される傾向が有ります。一個なのか10個なのかなど、間違えるとめんどくさいことは、極力無しの方向になります。つまり、なにも人間がやり取りしなくてもいい情報だともいえるのですがね。

一方で人間にとって重要なのは、もっと別の生産性はあまり関係ないコミュニケーション。単純には、なぜ人はおしゃべりをするのか、ということ。それはランダムネスを得ようとしているのではないか、と考えることができます。

それは脳みその動きと関係していると想像できます。人間は、なにかモノゴトを習得したり、考えたりする時に、属人的なパターンにそっている場合が多いです。それは習慣やクセ、個性などと呼ばれます。そしてこれらはほっておくと固定化される傾向があります。

しかしながら、人間とは面白いもので、パターンが繰り返されることで、退屈が訪れます。脳みそとしては、シナプスの結合が強化されて思考負担が減った結果であるともいえますが、なぜかそれを「退屈」と感じるメカニズムが備わっているようです。(まったくリファレンスを引いていませんので、必要にかられて今後調べると違っているかもしれませんが。。。)

その退屈を解消するには、日頃は使っていない何らかの思考のスイッチを起動する必要があります。例えば娯楽は従来の思考パタンとは異なる刺激を投入することで、脳みその使い方を変える営みであるといえます。

で、このプロセスにおいて、コミュニケーションはどのような働きをするかといえば、それは自分が使わない思考のスイッチを、他人からの刺激を利用して押す作業であるととらえることができます。つまり、自分だけでは、適当に考えていても、潜在的に予測されてしまうパタンを超えるために、ランダムな刺激を他人から得ようという作業であると考えます。

そうすると、人の話を聞かない人、というのは、自分で自分の思考のスイッチをランダムに操れる人であり、頑固な人というのは、ランダムな思考のスイッチをオンにすることを拒否する人であるといえます。ランダムさが有りすぎると疲れてしまいますが、なさすぎても退屈するということで、このあたりのバランスをとることが、人間の営みの一端なのだろう、と電話口でおしゃべりしながらぼんやりと考えていたこと。

ま、以上、当たり前なんですが、もし「退屈」と感じるメカニズムが経験則でそうだというのではなく、その機序が明らかになったら「愉快」だなーと思う今日。

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