ジョン・ラスキンであぐねる

ジョン・ラスキンの著作を読み、考えあぐねてなかなか更新できていませんでした。さらに、図書館で本を借りたため、手元に本がなく想像でモノを書くかたちです。

さて,ジョン・ラスキンとは何者かといいますと、1819年生まれのイギリスの評論家・美術評論家とWikipediaには記載があります。日本はまだ江戸時代だったり。美術評論家ということで、デザインとの関係があるとともに、モダンデザインの始まりとも言われるウィリアム・モリスに影響を与えたらしく、デザインを考える上では重要なのでは無かろうかという予感です。

読んだ著作は、「この最後の者にも・ごまとゆり」というタイトル。これだけだと何のことだかわからないのですが、まずは、「この最後の者にも」というのは、マタイによる福音書の一説で、ぶどう園で働く労働者を雇う主人のお話。この主人は一日につき1デナリオン(当時の通貨単位)で、朝早く労働者を雇い、昼にも雇い、そして日暮れ間際にも雇います。ところが、朝早くから働いた者にも最後の者にも同じ賃金を支払うので、最初に雇われた者が不満に思うというお話です。

そりゃそうだと思う反面、説教として解釈するならば、最後の者は我々で、そういう者でも救ってくださるのがイエス様ということになるそうです。

そういう考え方もある一方で、ラスキンは何を考えたかというと、労働価値を考えるのではなく、モノが有する価値について考えたのでした。特にここではデザインをやるということについての価値についてほんのり考えます。

ラスキンは文中で、蹄鉄をつくるのが上手い職人にも下手な職人にも同じ賃金を支払いなさい、と勧めています。ちょっと聞くと、どうかと思うのですが、これをラーメンで考えるとわかりやすい。注意をしなければならないのは、蹄鉄に対してお金を払うのではなく、職人の労賃についてお金を払うということです。

ラーメンがおいしかったら、そのラーメンには高いお金を払ってもいいというのが人情でしょう。一方おいしくなかったら安くていい、というのは、実はそうでも無い話であります。いくら安くても、まずかったらいくらもも喰えないし、そもそもおなかがいっぱいになります。

同様に、蹄鉄にしても、当座必要なモノがあればよいので、その場の上手下手はしょうがない。でも次の仕事は無くなるということになります。で、ここにいたり、最終的には、一番技能のある人に仕事が集中し、技能の足りない人は淘汰されるということになります。
そして、素朴な態度として、現実的にはそうならないように、それぞれの人が創意工夫をして仕事をしていく、という結論に至る、とも言えます。
そしてすべての仕事は芸術としての営みとして豊かな生活へといたるのではないかとラスキンは考えたのではないかと私は解釈しました。

もちろん、仕事を消費する者、説話における主人が存在するという構造があるわけでそれはそれで文化的背景として、芸術はすべからく神へ至る仕事であるという関係が有ったりするのではないかと推察はできます。あるいは中世の王侯貴族、産業革命以降の資本家であったり、現代の金融資本家であったりするのかもしれません。そして、デザインと芸術との境が曖昧まだ曖昧ではありますが、その上で、ラスキンが生きた時代の150年後の私たちの芸術が捧げる先きはなんであるのか。この問いを持つことはよくわからない世の中にとの対峙の仕方としてあり得るのではないだろうかとおもいます。

私は時間という矢に興味があったりするのですが、ちなみに、この本、後半のごまとゆりは、本を読め、そしてそれも古典を読め、と勧める内容です。
モリスの仕事も、本の装丁を行うことであったりと、考え直してみるとおおっつ、と探求心をかき立てられる内容であります。とりあえず、もう一回読んでみよう。


モノともの

モノとものについて

漢字で物と書いてしまうと、それまでなのですが、なかなかやっかいな概念です。

Wikipediaによると、哲学用語としての物、これは時間的存在者のこと。
経済的には、物質の他に、サービスなども含む経済的価値のあることをさす。
法学的には、人に対することばで、権利などの客体となるものをいう。民法上では有体物というそうです。
などなどといろいろな意味があります。

哲学用語の意味は難しくてよくわからん、というところですが、重要なのはサービスなどの無形の対象をどう呼ぶか、それで経済と法学との違いになりそうです。

では、もの、と平仮名で表記をすると、つぎの問題は、者、も、もの、と呼ぶことです。(ええい、ややこしい)

故に、個人的な立場としては、物はモノと表記するのがよいのだろうと考えます。

なんでそんなことを考えたかというと、「官僚たちの夏」というドラマをやっているので、そういえば経済産業省の前身、通商産業省のデザイン行政がどうだったっけと調べようと。
Webでは、経産省のなかにものづくり産業振興という部門があり、その中にデザイン・人間生活システム政策という小項目があります。
そのWebのパン屑リンク(なんとか>なんとか>なんとか>全体とリンクとの関係を表記する方法です)

その表記が、ものづくり、と、モノづくり、とちょっと表記の揺れがあったので調べてみたということです。
それくらい、あんまり意識されていないということでもありましょうが。

「官僚たちの夏」、については、プロジェクトX官僚版、かなー、とおもいつつ。米国との戦い方としては、保護経済か自由経済かとおいたときに、結局のところ米国は研究開発から商品化へむかう道筋の上流工程において研究開発費として膨大な資金を投入していることもあり、実質保護主義的なんではないかなー、と思っています。ドラマではその辺りの描かれ方がどうなのか興味深くあります。

経産省とデザインについては、JAPANデザイン海外販路開拓支援事業の公募がかかってます。安心・安全に配慮したものづくり(おおよそこちらの呼称が公的なようです)に対する補助があるとのこと。
この公募の見本文書、現経産省大臣は親中でらしく、なんだかその雰囲気が残っていておもしろいです。一方、産婦人科の勤務実態にたいする現大臣のコメントが問題となっていることもあったり、事情の兼ね合いが難しいところも発生しそうな予感もします。
また、状況としては、衆院選も近々ありそうです。ぶれの無い行政をお願いするばかりです。

最後にデザイン行政ですが、これは、デザイン政策ハンドブック2009によくまとまっており、たいへん勉強になります。ありがたいです。デザイン政策の必要性が1955年後頃に取りざたされていたというのは、ドラマころの時代と近接しています。

デザインの定義やデザインの分野についても、記述があり、この辺り参考になるのですが、個人的には抜けがあると思います。
まず、エンジニアリングデザインとの関係もあまり出てこなくて、また、だれもそこを触れないのか!というもやもや感があります。だからデザインなのだ、という話になるのですが、なにかと難しい。
つぎに、ネットワーク分野での記述が無いこと。単純な話ではWebデザインはビジュアルデザインになるのだろうかと思うのですが、実際にはそんな風にはできていないです。個別のデザインをプロモートするための方法としてWEBがもはや必須ですが、WEBデザインの業界団体なども現状では存在せず、また、情報通信に関しては、別の部署で行政が司られていると推察されます。デザイン振興では、おそらくもっとも重要になる分野ではないかと個人的には考えます。
そして、たとえば、海上メガロフロート、小型ロケット、組み立て式住居、石油の採掘プラントなどの重工業の構想は、おそらくこの議論の中にはあんまり入ってこないだろうなーと思います。なぜなら、それらの事案にはユーザの感性価値など想定できないから。しかし、実際にはそういうところまでデザインでは考えたりします。

翻って、そもそも、産業育成は民間企業ががんばった結果であって、行政がどうこうできる問題でもない、そして、そういう時代でもない、ということもいえるかもしれません。ドラマは美しい話となりますが、実際にはそれとは別に当事者意識を持って、日々精進しなければと思います。

デザイン関連資料


パターンとコード

パターンとコードについて.
よく使う言葉のようで,ちょっと考えていた.パターンは,「その話はいつものパターンだねー」というように,以前に出現した物事の繰り返しという意味かと考えます.

コードは,よく考えると,chord,code,cordの3つのコトバが当てはまります.
chordは音楽の和音などの意味,
codeは法律とか記号とかの意味.
cordはひもとか電線とかの意味.

特に,興味があるのは,codeとしてのコードです.

というのは,パターンはデザイン上,グラフィック表現として普通にあり得るのですが,これは,通常「地」として認識されます.すなわち,認知される際に,対象として意識されることはない構成要素となります.

ところが,パターンに生じたリズムに狂いが生じたり,乱れ,例外が生じると,そのパターン上に「図」としてのコードが出現します.これは,認知される対象としての造形物です.

もちろん,コードがそれ自体図として存在する場合は,意図して認知しなければコードとしては機能しません.バーコードなどは,もはやその図象自体が図であるので,全体の中の一要素となります.

どこまでやったら,図として認知できるか,あるいは,パターンのままなのか,この辺りが微妙で面白い.
例えば,下記の図形は,どこかが破綻してるんですがパッと見ると,どこが間違っているか分かりにくい.でも見つけ出すと,あからさまだったりします.

tairu

音楽なんかも同様で,同じコード(ここではchordですね)の繰り返しがパターンとなったとき,それは地として聞こえてきますが,時にそのパターンが半音高くなったり低くなったら,それは図として聞こえてきます.

こういう,あれ違う,っていう感覚を持つことが感性なのかもなー,などと思う今日この頃.