米中メディアにみる鏡像反転

新聞への広告出稿がWebのそれを抜いた、とか、日経新聞が有料のWebコンテンツ配信を実施するなどの報道を受け、メディアについて考えた。というか、考えていたし、考えてみます。

思うのは、メディアについて2冊の本を読んで、全然コンテンツが違うはずなのに、ほぼ同じことが書いてあって興味深いということです。例によって本が手元にないために霞の向こうから記憶を呼び起こしますので、不正確なところはどうかご容赦を。

さて、一冊は、N.ChomskyとE.S.Harman の「マニュファクチャリング・コンセント、マスメディアの政治経済学」という本。
プロパガンダモデルと呼ばれる観察によって得られた仮説の検証を行った著作です。主にアメリカの新聞等のメディアについての分析を行いますが、メディアがどのように世論操作を行っているのか、ということについて主張しています。
これは1)メディアの所有者はだれか2)利を与えるのは誰か3)情報ソースはどこか4)攻撃をするのは誰か5)非難対象はなにか、というモデル、あるいは構造と言い換えてもいいかもしれませんが、それがどのように機能しているのかを取り上げています。
例えば、東西冷戦下のポーランドで殺害された神父の報道については、犯行が東側当局とされ、その死体の状態や経緯などが詳しく報道されたが、一方、同じ頃におきたエルサルバドルでの尼僧の殺害事件などでは、米国が支援していたと思われる政府軍の犯行であると言われおり、その報道は控えめに、かつ、メディアとして自制した内容であったとされています。
つまりは、メディアが報じる内容は、そのメディアの取り巻く利害得失によって異なってくることが明白であるということになります。その上で、あたかも合意が生成されたかのような体裁をとりますが、実際には何らかの意図に基づいた捏造であるぞ、とこうなります。

もう一冊は、「中国の嘘ー恐るべきメディア・コントロールの実態」という本です。この本は、中国国内でいかに真実の報道を行うことが難しいか、ということを説明した内容となります。
中国国内で報道される内容は、ほぼすべて中央発の内容であり、新華社や中央電子台での報道内容はすべて中央の方針にそって行われている、とのことを説明しています。
また、特徴的なのは、情報というのが、属している社会階級によって得られる内容や質が異なる、ということにあるそうです。
例えば、ある地域で役人の汚職に端を発し暴動が起きた、と仮定します。この情報は、当然ながら中央に伝達される可能性が高いです。(ややこしいのは、暴動がおきたとしても、中央に察知されることを恐れる地方の役人などがその事実を隠蔽するという二重構造になっていることもある、ということです。)この情報は、中央にはフィルタリングされることなくあがったとしても、一部の階級の人にしかしられることがなく、たとえ一般民衆に報道されたとしても、サボタージュとしての批判となるか、あるいは、その汚職を払した別の役人をたたえる、といった構造に書き換えるかして、実際の問題とは異なる論点にすり替えるということがなされる、ということがあります。
さらに興味深いのは、そのような報道を逐一中央が行うのではなく、報道機関がその意向に添うように報道内容を選択し編集する、ということが有るそうです。

この2冊については、イデオロギーが異なるはずの米国と中国を主な対象としているにも関わらず、報道についての結果はほぼ同じじゃないか、ということに驚かされます。
つまりは、メディアの報道は誰にとって有益なのか、ということが、記者個人の良心如何に関わらず、報道機関が存立する構造から規定されてしまう、という事実です。
報道の自由が無い、といって中国を批判するのは容易いですが、米国にしても向いている先きが異なっているだけで、自由な報道は無いとも言えるわけです。日本においても、当然ながら出資するスポンサーには逆らいにくいし、免許を与える機関に対する批判もしがたい。宗教団体の資金は侮れなかったりしますし。

ただ、当然米中で異なる点はあります。
米国では、上記のような分析と批判は自由にできます。メディアに取り上げられるかといえば否ですが、主張する権利もあるし、それを妨げる規制も少ない。そのニュースが大々的に取り上げられるか否かは、何れかの資本にとって有益に作用するかどうかという一点につきるとも言い切れるわけです。そうでれば、ウォーターゲートのように、政治中枢を暴くこともやぶさかではない、とこうなります。
つまりは、政治に優先する資本がメディアをコントロールしているといえます。
中国の場合は、政府批判をすることは危険な行為であり、正確な報道等を行おうとすると機密漏洩や国家反逆の罪に問われる可能性があります。しかしながら、個人的な観察では、購買行動を喚起するような報道や広告、広報は規制されないし、お笑いや下世話なメディアコンテンツも政治風刺に関わらない限り、自由に行われているようです。よって言えることは、資本に優先する政治によって、メディアがコントロールされていると言えます。

以上のように考えていくと、なんだ当然のメディアリテラシーじゃないか、という結論に行き着く訳でもあります。その上で、個人的にメディアに注意を払うべきだとしたら、有るべき論の展開であったり、宗教的な言説の論調であったりします。ということで、くわばらくわばら。

(以上のことを相対化するには、やっぱり海外メディアにふれることなのかなーとおもうわけです。例えば、APのニュースをよく見ますが、昨今トヨタのことが結構でてきます。安全というある意味では有るべき論から非難をされてますが、おそらく、トヨタのもつ内部留保を市中にはきださせて、日本から資本を本格的に引きはがそうとする作戦なのかもともおもいます。モノづくりとは別の次元でことが動いているというにおいを感じるのも、こういった報道からだったりします。。。)

こちらは映画になってDVDもあったりします。


人間から霞に向う未来

googleが家庭向けに1Gbpsのブロードバンドネットワーク事業に乗り出す旨の報道を受け、いったいどれほどネットワークは早くなったらいいのか引っかかったので、何やらぼんやり考えた。

今のところ、大容量のデータっていうと、映像が主体。でも、人間の感覚は視覚だけではないだろうと思い、人間が外界から受ける刺激について調べてみる。

すると、思いかけず、すごくよくまとまった資料が引っかかったので、参考にしました。感謝です!

http://www.rm.mce.uec.ac.jp/sice/2006HapticsCommiteePPt.pdf

五感についてですが、資料によると、
視覚 107bit/s
聴覚 105bit/s
嗅覚 103bit/s
味覚 103bit/s
ということで、圧倒的に視覚の勝ち。オーダが全然違うので、情報量としてはやはり視覚が大きいようです。
しかし、見逃せないのが、触覚です。資料によると、触覚が得る情報量は、
106bit/s
ということです。
これは視覚といい勝負です。が、オーダがやはり一桁小さい。
なので、これをふまえて深部感覚などをあわせて概算して、仮に人間の感覚を107bit/sとします。

つまり、人間が受け付けられる最大の情報量として、107bit/s = 10Mbpsとすることができます。あれ、以外に少ない!いまのLANの速度は100Mbpsぐらいありますから、如何にデジタル情報を人間の咀嚼できる情報に変換することが大変なのかがわかります。(というのも、映像で実際で注視している部分は限られているし、変化量の少ない情報は認識できないので、大部分の情報を捨てていることになる訳です。)

さて、それでもさらに仮定を続けて、デジタル信号を人間が直接解釈できる=直接感覚器に刺激を与えることができるとします。すると、今回googleが提供する1Gbpsで100人分の刺激を伝えることができます。
各家庭に配信するベーシックな情報量としては、これでどうやら充分ということが推察することができました。

ここで、大胆な思考を続けると、全世界の人すべての感覚を流通させるとどれくらいの情報量になるかということ。
仮に今後世界の人口が増えていき、100億人に達したとしましょう。100億人は、1010となります。これに、先ほどの一人あたりの情報量を積算すると、1017となります。これは、100ペタbpsとなります。10京bpsとも言えます。
これくらいオーダが大きくなると、どれくらいかが想像できなくなってきますが、これも報道を参照すると、NTT communicationsの国際IPバックボーンの日米間の回線容量が300Gbps。すなわち、約30万倍速くやり取りしないといけない、という計算になります。

ということで、なかなか大変ということだけが分かる結果となってしまったのですが、さらに、相互に情報をやり取りすることを考えるとさらに膨大になります。
NTT com社の規模がさらに30万社必要になるのだと考えると途方も無いですが、技術革新のためには、それくらいのスピードアップを計る方法を模索する必要があるのかも。それは多分、量子テレポーテーションとか、一見するとSFじみて聞こえるのですがそのあたりがキーになりそう。

ただし、量子テレポーテーションとかが実現すると、暗号理論が破綻するので、新たな量子暗号化理論なるものが登場して、、、、などと人間という物体から、どんどんもやもやの霞の向こう世界に至っていきます。。。

つまり、感覚をそのままそっくりやり取りするには、どうやらこの霞に期待を託すのが我らの未来。


漢字文化

中国に行ってきました。いろいろと思うところはあったりしますが、まずは非常に関心を寄せてきた中国における文字とデザインについて。

中国語というのは、知っているようで全然知らない領域の一つだと感じてきました。
印刷物のみならず、今日においてはWebを通じていろいろな言語と触れる機会があります。当ブログにおいては、キリル文字(Кириллица)のスパムに悩まされたりしますが、、、。
同じ漢字文化ではありますが、何となくグラフィックの印象が違ったり、日本語や欧文の表現とは異なった文字の表現方法が有るようです。

まず整理として、中国語にも簡体と繁体があります。簡体は中国本土で使われ、繁体は台湾や香港、マカオなどで使われるそうです。

で、今回は、「字体設計基礎」なる本を入手しました。出版社は人民美木出版社というところ。中国中央電視台の放送大学みたいなものの教本みたいです。

ちなみに、書店で入手しましたが、面白いなとおもったのは、illustratorなどのDTPの本というよりも、手書きのタイポ作成の本も結構ならんでおり、実際には日本のようにでっかいプリンタで看板製作をしたりするよりも、まだまだ手書きによる製作作業が多いのではないかと推察することができました。

さて字体なのですが、日本におけるいわゆる明朝体のように永字八法の見えをする字体は、中国では宋体と呼ばれています。

次に、ゴシック体は黒体、丸ゴシックは圓黒体と呼ばれます。圓黒体は、細いウェイトのものは幼圓体とも呼ばれているようです。
(これらの漢字を入力するのがまた大変です。。。)

以上が基本の書体のようです。

欧文の場合、セリフ体とサンセセリフ体が基本となり、スクリプトといった欧文書道書体があります。丸ゴシックは、実はあまり欧文書体にはない書体だったりもします。

さらに、日本ではみない、みるとすれば、学生運動の看板か?みたいな表現。興味深いです。ま、意味もけっこう厳ついです。

思うに、漢字ばかりであるので、文字面に丸みが出しにくい印象です。アルファベットや平仮名は、文字面を白くつくったり、丸みのある印象を与えます。

だからこそ、いわゆる”書道”というのが本当に豊かな表現だなーと考えさせられます。

そして、「大地の子」、読み進めてます。こちらも興味深い。。。