意識下での駆動力

September 11

また今年も当たり前に9月11日がやってきました。2001年の9月11日はもはや一昔になりつつ有りますが、個人的な世界認識を強烈に変化させたWTCの出来事がありました。

この日何をしていたのかについては、別の場所では記述しているのですが、北海道ツーリングの準備をしていた夜でした。とつぜん煙を噴くWTCの映像がテレビに流れました。

火事?とおもったら飛行機が突っ込んだという衝撃。明日から世界がかわると思いました。そして、遠景から見るビルと飛行機には、正直なところ人が乗っているということが実感できるものではありませんでした。そして崩壊。

現場近くの映像で、ようやく現実感をもったものとなってきました。そして、明日から世界がなくなるんじゃないだろうか?と思ったものです。ちょっと大変じゃね?と友人に電話してみたり。

ところが翌朝、予定通りに出発をして、街を走り、山河を抜けてると、そこには日常の生活。立ち寄る牛丼屋にも当たり前に並盛りが売られていました。

果たして、この生活にあの事件は連環しているのだろうかと、はたと思ったのです。関係がないと割り切って生活しているけれど、与えられるその原因や因果が明らかにならない薄気味悪さ。そしてそのまま世界は日々の動きを止めないのだと考えたのです。

今になってみれば、普通の人はそんなことを考えるほど暇じゃない、ってこと。そして、そんなことを考えるよりも、もっと楽しくなった方がよい、ということ。もちろん自分も、我がことのように思えなかったということで、なんともいえない罪悪感も有ります。

しかし、自分の場合は、非日常に旅立とうしていたその矢先に、更なる非日常となる出来事が起きてしまい、非日常の中の日常性がより際立つ結果となったことで、日々の営みと世界との関係をどうしても意識してしまうこととなりました。ややこしいですね。

このことが、いろいろなモノゴトの根っこが見えない不気味さを、事象と事象とから仮説を組み立てて推理することで自分で納得するというクセになり、その推理による直感から縁あってデザインという方法を研究し実施することに至っているように思います。

そして、昨今、これも縁があって、911の当日に米国で事件にまつわる不可解な出来事を経験した方とお会いする機会がありました。その出来事で、その方は残りの人生をどう過ごすか決定的に変わったそうです。

あれは何だったのか?亡くなった方が多数いる事件の目的と結果は何だったのか。そして結果的に事件よりも多数の死者を出す戦争も、いったいなんなのか?その事象と事象から推論と仮説をたて、さらに検証を行うのが、私の意識下での駆動力なのかもしれません。


ランダムと退屈

かなり間が空いてしまいましたが、何を考えていたかというと、情報について。そして某社のSさんに、コミュニケーションが人間の目的なんでは?という話をうかがい、ずっと頭に。何か答えが出た訳ではないけれど、電話で友人と話をしてコミュニケーションについて思いつくことがあったのでメモです。

コミュニケーションの目的について、それはランダムネスの扱いだと考えることができます。

まず、ビジネスにおけるコミュニケーションには、正確な伝達が望まれ、それにはランダムネスが排除される傾向が有ります。一個なのか10個なのかなど、間違えるとめんどくさいことは、極力無しの方向になります。つまり、なにも人間がやり取りしなくてもいい情報だともいえるのですがね。

一方で人間にとって重要なのは、もっと別の生産性はあまり関係ないコミュニケーション。単純には、なぜ人はおしゃべりをするのか、ということ。それはランダムネスを得ようとしているのではないか、と考えることができます。

それは脳みその動きと関係していると想像できます。人間は、なにかモノゴトを習得したり、考えたりする時に、属人的なパターンにそっている場合が多いです。それは習慣やクセ、個性などと呼ばれます。そしてこれらはほっておくと固定化される傾向があります。

しかしながら、人間とは面白いもので、パターンが繰り返されることで、退屈が訪れます。脳みそとしては、シナプスの結合が強化されて思考負担が減った結果であるともいえますが、なぜかそれを「退屈」と感じるメカニズムが備わっているようです。(まったくリファレンスを引いていませんので、必要にかられて今後調べると違っているかもしれませんが。。。)

その退屈を解消するには、日頃は使っていない何らかの思考のスイッチを起動する必要があります。例えば娯楽は従来の思考パタンとは異なる刺激を投入することで、脳みその使い方を変える営みであるといえます。

で、このプロセスにおいて、コミュニケーションはどのような働きをするかといえば、それは自分が使わない思考のスイッチを、他人からの刺激を利用して押す作業であるととらえることができます。つまり、自分だけでは、適当に考えていても、潜在的に予測されてしまうパタンを超えるために、ランダムな刺激を他人から得ようという作業であると考えます。

そうすると、人の話を聞かない人、というのは、自分で自分の思考のスイッチをランダムに操れる人であり、頑固な人というのは、ランダムな思考のスイッチをオンにすることを拒否する人であるといえます。ランダムさが有りすぎると疲れてしまいますが、なさすぎても退屈するということで、このあたりのバランスをとることが、人間の営みの一端なのだろう、と電話口でおしゃべりしながらぼんやりと考えていたこと。

ま、以上、当たり前なんですが、もし「退屈」と感じるメカニズムが経験則でそうだというのではなく、その機序が明らかになったら「愉快」だなーと思う今日。


心地よいキャンセル

しばらくぶりの記事です.昨今,オンラインでいろいろな予約をして,それからいろいろキャンセルをする事態に.

さて,オンラインでのモノゴトは,クリックで何でも決まっていきます.
そして,当たり前ですが,近年ではその傾向はますます強くなっています.

例えば,One-clickで買い物ができちゃうAmazonのシステムは,それ自体が特許性があるということで有名.その後いろいろと権利の範囲が変化しましたが,そいいうこともあるぞと.

商売上の入り口はネットによってどんどん敷居が下がっており,購買者の意思決定を促すことは,その指先の動作をどのように心地よく誘導するのかにかかってきています.そのためには,おもてなしの心が大事だな,と思います.

しかしながら,簡単に契約ができるようになった一方で,それをキャンセルする仕組みは,全然整備されていなかったり,心地良くなかったりします.

まあ,普通はキャンセルはできない,というのが当たり前ではありますが,顧客とおつきあいする以上は,継続的な関係を築くために要望に応えるという事態はソリューションの中では当然発生することです.

今回,このことを考えるきっかけとなったのは,飛行機のキャンセルのやり取りをしたとき.

チケットを海外の会社のサイトで予約をしたのですが,それをキャンセルする方法がいまいちわからない.サイト自体は日本語で表記されているので,電話でも大丈夫かなと思い,電話をかけると,残念ながら英語.それならそうと書いておいてほしい.

しかも,予約番号やらを伝えなくちゃいけなくて,書類を引っ張りだしたりで大変めんどくさい.予約するのに比べて,キャンセルのハードルはものすごく高いです.

商売上,おいそれとキャンセルされたら困るのは当たり前で,当然ハードルが高いのも十分理解できます.むしろめんどくさい方がキャンセルそのものを諦められる可能性が高くなります.しかしながら,プロダクトを売ることと,商売を続けることはまた別の話ではないかなー,とも考えます.

そうすると,ネットという商取引だからこそ,その取引のプロセスとパタンが顧客によくわかるデザインが必要だと考えます.そのためには,キャンセルや取り消しといった,本当は無い方がいい事態に対しても,補完するサービスが今後キーと成りそうな気がします.
おそらく,キャンセルするのは双方心苦しいものなので,あ,キャンセルぜんぜんOKすよ!,ぐらいのノリの仕組みがあれば,そのことで逆に入り口も広がるように思います.

なーんてことを考えつつ,果たしてフライトはちゃんとキャンセルされているのか不安でしかたがない...