病院の地下の原発

原子力発電について考えることがあり、ひらめく。

病院でPETとか使うんだったら、いっそのこと小型の原子力発電機をそなえちゃったらどうだろうか。災害時にも自家発電の能力が維持されるし、地域の医療とエネルギーとをまかなう施設として機能する。

両者も電子行政やネットバンキングのようにネットワーク越しにやり取りが終わるのではなく、物理的な送電線や、人の往来といった、実体が伴う必要があり、生活圏から一定の距離内にないといけないもの。

問題は、所管する行政が厚労省と経産省どちらなの?ということがありますが、現在、医療機器産業も両者が入り乱れてちょっとよくわからないことになっているので、いっそのこと一緒になれ!と念じてみたり。


情報の量的情報

研究室で使っていたMacが起動しなくなるトラブルに見舞われました。よくあることとはいえ、このタイミングで!?という憤りを感じなくはないですね。

急遽、別のMacにつないでデータをサルベージ。どうやら、ハードディスクがきちんと読めなくなってしまったようです。物理的な欠損というよりも、システム側のデータの読み書きがうまくできなくなってしまった模様。

作業を止める訳にはいかないので、あっちのマシンやこっちのマシンを行き来し。ところが、それぞれのマシンのアプリケーションやらの設定がバラバラなので、データのやり取りがうまくいかない。特に、フォントが入っていないことが多いので、困る。

まあ、いろいろ思うところはありますが、結局ハードディスクをフォーマットし直して、だましだまし使うことができたのでよしとする。

話はかわりますが、コンピュータのデータが飛躍的の大きくなったのはここ最近ですが、人間は結局どれくらいの情報を生産し、消費し、そしてレコードしているのか、気になるところ。なんでもかんでも後生大事にデータをとっておくたちですが、後世に残っていることなんて、ほとんどないだろうと思う。それでも、先進諸国の産業なり生活なりは、ほとんどデータを処理し伝達しまた処理するということで成り立っているように推察することもできる。そのようなある意味では、実体にそのまま変換することができない情報量という媒質で満たされている世界で生きているのだろうと考えるのです。

人類というものは、脳を肥大化させ、ある意味では情報を喰らって生きることを業とした生き物であるということが言えると思います。デザインでは、その情報を整理するという営みを行うことであるし、また、未だない情報を組み合わせる営みであります。情報についての「量的」情報を減らすことが、デザインの原理として位置づけることができれば、デザインの論理の新局面になるのではないかと、思いつきました。


フレームワークのデザインについて

またHTMLやCSSやらをリーバスエンジニアリングすることになり,頭が痛い.

デザインと実装を同時にやるという意味では,エンジニアリングとデザインとが一致した作業であり,おもしろくはあり,ずっと作業できてしまう自分もいるのですが.

ただし,プロダクトデザインとWebデザインの異なる点として,プロダクトデザインはプロトタイピングを実施することが結構難しいが,一方,Webデザインの場合は,プロトタイピングによって動作を確かめることが比較的容易.

ところが,ここがくせ者で,デザインをはっきりさせておかないと,結局最初から構築をし直さなければならないことも多い.また,動作環境によってデザインや動作にばらつきがあり,悩ましい部分.

で,結局全てのモノづくりに関係しているのだろうと考えるのだけれど,どれだけ優れたメタエンジニアリングが存在するのか,ということ.

簡単な例でいけば,単位系の問題がある.今はほとんどの国でSI単位系が一般化しているけれど,これが無ければ一つの部品を作るのに,膨大な情報伝達が必要となり,ひどく労力が必要となる.よって,なんらかの規格にのっとってモノをつくるというのには合理性がある.

プログラムも同様に,どの言語を使うのか,情報を処理するという目的に合わせて,プログラミングを実施しようとするときに、足し算程度なら,ゼンマイで動くような全て機械機構によって構築することもやぶさかではないが,ちょっとした演算を行おうものならば,チューリングマシンでないと難しい.さらに複雑なことをさせようとすれば,ハードとソフトを明確に分離し,且つ,ソフト=言語系のあり方も規定されていることが望ましかったりする.フレームワークとでも言いましょうか.

ここで注目されるべきであるのは,どのフレームワークを選択するのかは,作り手に依存するし,そもそもフレームワークが成立した合理的根拠は,突き詰めていけば薄弱であると思われる.

究極的には,どのようにやるか,何を根拠にするかというのは,主義主張や思想である,ということがいえると思う,これは,I先生からよくうかがう話でもある.

その主義主張は,好きとか美しいと感じるかといった部分や,できたモノを評価してみるしか判断することができない.最終的には声の大きいやつが勝つ,という訳ではないですが,ある意味冷静にフレームワークを見極める目を養う必要があると考えた,CSSが頭を巡る今日この頃.