肺の移植装置

Med GadgetというWEBサイトをちょくちょく見に行きます。

今回、見に行ったら驚きの技術が。

肺の臓器移植の際に、臓器摘出から移植までの間、肺の状態をなるべく生体に近づけようとするもの。

ガラスの容器に肺をおさめ、ベンチレーターに接続され適温で管理するそうだ。

人工肺は、現状では体外循環の際に用いられるのみで、生体の肺と交換するようなものは存在しない。さらに、肺の移植は難しく、3年後の生存率は55.6%との報告もあるそうです。日本の場合は、そもそも移植ドナーが少ないです。

肺移植について

しかしながら、装置のありようがかなり異様なモノを感じざるを得ません。生体である以上は、もう少し、生体の中にある形態に近づけてあげた方が、提供した人も提供される人もうれしいのではないだろうか。

ということを、動画からはびしびし感じました。


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MIT Technology Review


病院の地下の原発

原子力発電について考えることがあり、ひらめく。

病院でPETとか使うんだったら、いっそのこと小型の原子力発電機をそなえちゃったらどうだろうか。災害時にも自家発電の能力が維持されるし、地域の医療とエネルギーとをまかなう施設として機能する。

両者も電子行政やネットバンキングのようにネットワーク越しにやり取りが終わるのではなく、物理的な送電線や、人の往来といった、実体が伴う必要があり、生活圏から一定の距離内にないといけないもの。

問題は、所管する行政が厚労省と経産省どちらなの?ということがありますが、現在、医療機器産業も両者が入り乱れてちょっとよくわからないことになっているので、いっそのこと一緒になれ!と念じてみたり。


情報の量的情報

研究室で使っていたMacが起動しなくなるトラブルに見舞われました。よくあることとはいえ、このタイミングで!?という憤りを感じなくはないですね。

急遽、別のMacにつないでデータをサルベージ。どうやら、ハードディスクがきちんと読めなくなってしまったようです。物理的な欠損というよりも、システム側のデータの読み書きがうまくできなくなってしまった模様。

作業を止める訳にはいかないので、あっちのマシンやこっちのマシンを行き来し。ところが、それぞれのマシンのアプリケーションやらの設定がバラバラなので、データのやり取りがうまくいかない。特に、フォントが入っていないことが多いので、困る。

まあ、いろいろ思うところはありますが、結局ハードディスクをフォーマットし直して、だましだまし使うことができたのでよしとする。

話はかわりますが、コンピュータのデータが飛躍的の大きくなったのはここ最近ですが、人間は結局どれくらいの情報を生産し、消費し、そしてレコードしているのか、気になるところ。なんでもかんでも後生大事にデータをとっておくたちですが、後世に残っていることなんて、ほとんどないだろうと思う。それでも、先進諸国の産業なり生活なりは、ほとんどデータを処理し伝達しまた処理するということで成り立っているように推察することもできる。そのようなある意味では、実体にそのまま変換することができない情報量という媒質で満たされている世界で生きているのだろうと考えるのです。

人類というものは、脳を肥大化させ、ある意味では情報を喰らって生きることを業とした生き物であるということが言えると思います。デザインでは、その情報を整理するという営みを行うことであるし、また、未だない情報を組み合わせる営みであります。情報についての「量的」情報を減らすことが、デザインの原理として位置づけることができれば、デザインの論理の新局面になるのではないかと、思いつきました。