蛇口と投函と歯痒さ

iPhone撮影例
JAXAiにてiPhone4で撮影

iPhone4を入手、してから1週間が経とうとしています。徹夜して並んだのが既に遠い過去です。。。

結論からいうと、従来のiPhoneより速く快適になったという、スペック上でわかる利得を新規デバイスから感じています。

できる事が増えているといえば、動画を撮影できたり、コンパスを使えたりできるくらいでしょうか。そういう意味では、特に目を見張るようなことはありません。

新しいApple製品が一通りそろったところで、iPad、iPhone、Macの棲み分けを個人的に整理してみますと。

Macはやっぱり物書きやら作図やらには欠かせません。すなわち、何らかのコンテンツをつくって貯めていくためのデバイスといえるでしょう。使う場所はもっぱら自宅。図書館や喫茶店で使う事もありますが、まあ、それは作業の延長でしかないです。

iPadは何に使っているかというと、ベッドサイドでごろりとなりながらブラウジングをしたりしてます。特に利用頻度が高いのは、動画を組み込んだニュースアプリの閲覧です。それに加えて、業務的には、その場で話題にでたニュースサイトやコンテンツを閲覧すること。このためには、単にディスプレイを囲んで議論ができればいいのでナイス。プロジェクタと違って、同じ方向をみんなで見つめて黙り込むのでは無く、iPadを囲んでディスカッションがナイスな使い方だと勝手に考えています。

そしてiPhoneですが、もっぱら移動中はこれです。音楽を聴く、道を調べる、などは、もはや手放せない存在であることは確かです。それに加えて、iPhone4になったことによって気づいたことは、自分が世の中の事象をデジタル化してネット化するための身体の延長であるぞ、とこういう事です。

例えば、先日街を歩いていると、見かけない光景に出くわしたので、写真を撮ってツイート、そして、動画もとれるということで、音と映像をyoutubeにアップ。これがマシンスペックによって簡単で素早く行うことが可能となりました。さらにドコで起きた事なのかも、GPSのデータによってタギングできます。

こういう事が、なんと簡単にできるのか、と感動した次第です。

思い起こせば、大学では写真部に所属していて、由無し事を写真にしては展示会に出してたものです。なぜそんな事をしていたかといえば、小さい頃に石川文洋さんというカメラマンさんの書かれた「シャッターチャンスは一度だけ」という本を読んで、世の中には戦場カメラマンという仕事があるのか!と勝手に驚いたのが起源かなと考える次第です。

つまりは、出くわしてしまったというミラクルをシェアしたい、という希望をiPhoneはいとも簡単にできてしまう。これは個人的には本当に望んでいた世界でもあります。そのためのツールとして、音も映像もそして場所さえもを即座に知らせる手段が手のひらに収まっていることに改めて驚愕する次第です。

情報の蛇口ではなく、こちらからの投函口である、という使い方。これがどんどんできたらいいなー、と思う今日このごろ。

ただ、iPhoneの事をお伝えするための写真をiPhone自身では撮影できないという、この歯痒さは如何に。


ランダムと退屈

かなり間が空いてしまいましたが、何を考えていたかというと、情報について。そして某社のSさんに、コミュニケーションが人間の目的なんでは?という話をうかがい、ずっと頭に。何か答えが出た訳ではないけれど、電話で友人と話をしてコミュニケーションについて思いつくことがあったのでメモです。

コミュニケーションの目的について、それはランダムネスの扱いだと考えることができます。

まず、ビジネスにおけるコミュニケーションには、正確な伝達が望まれ、それにはランダムネスが排除される傾向が有ります。一個なのか10個なのかなど、間違えるとめんどくさいことは、極力無しの方向になります。つまり、なにも人間がやり取りしなくてもいい情報だともいえるのですがね。

一方で人間にとって重要なのは、もっと別の生産性はあまり関係ないコミュニケーション。単純には、なぜ人はおしゃべりをするのか、ということ。それはランダムネスを得ようとしているのではないか、と考えることができます。

それは脳みその動きと関係していると想像できます。人間は、なにかモノゴトを習得したり、考えたりする時に、属人的なパターンにそっている場合が多いです。それは習慣やクセ、個性などと呼ばれます。そしてこれらはほっておくと固定化される傾向があります。

しかしながら、人間とは面白いもので、パターンが繰り返されることで、退屈が訪れます。脳みそとしては、シナプスの結合が強化されて思考負担が減った結果であるともいえますが、なぜかそれを「退屈」と感じるメカニズムが備わっているようです。(まったくリファレンスを引いていませんので、必要にかられて今後調べると違っているかもしれませんが。。。)

その退屈を解消するには、日頃は使っていない何らかの思考のスイッチを起動する必要があります。例えば娯楽は従来の思考パタンとは異なる刺激を投入することで、脳みその使い方を変える営みであるといえます。

で、このプロセスにおいて、コミュニケーションはどのような働きをするかといえば、それは自分が使わない思考のスイッチを、他人からの刺激を利用して押す作業であるととらえることができます。つまり、自分だけでは、適当に考えていても、潜在的に予測されてしまうパタンを超えるために、ランダムな刺激を他人から得ようという作業であると考えます。

そうすると、人の話を聞かない人、というのは、自分で自分の思考のスイッチをランダムに操れる人であり、頑固な人というのは、ランダムな思考のスイッチをオンにすることを拒否する人であるといえます。ランダムさが有りすぎると疲れてしまいますが、なさすぎても退屈するということで、このあたりのバランスをとることが、人間の営みの一端なのだろう、と電話口でおしゃべりしながらぼんやりと考えていたこと。

ま、以上、当たり前なんですが、もし「退屈」と感じるメカニズムが経験則でそうだというのではなく、その機序が明らかになったら「愉快」だなーと思う今日。


心地よいキャンセル

しばらくぶりの記事です.昨今,オンラインでいろいろな予約をして,それからいろいろキャンセルをする事態に.

さて,オンラインでのモノゴトは,クリックで何でも決まっていきます.
そして,当たり前ですが,近年ではその傾向はますます強くなっています.

例えば,One-clickで買い物ができちゃうAmazonのシステムは,それ自体が特許性があるということで有名.その後いろいろと権利の範囲が変化しましたが,そいいうこともあるぞと.

商売上の入り口はネットによってどんどん敷居が下がっており,購買者の意思決定を促すことは,その指先の動作をどのように心地よく誘導するのかにかかってきています.そのためには,おもてなしの心が大事だな,と思います.

しかしながら,簡単に契約ができるようになった一方で,それをキャンセルする仕組みは,全然整備されていなかったり,心地良くなかったりします.

まあ,普通はキャンセルはできない,というのが当たり前ではありますが,顧客とおつきあいする以上は,継続的な関係を築くために要望に応えるという事態はソリューションの中では当然発生することです.

今回,このことを考えるきっかけとなったのは,飛行機のキャンセルのやり取りをしたとき.

チケットを海外の会社のサイトで予約をしたのですが,それをキャンセルする方法がいまいちわからない.サイト自体は日本語で表記されているので,電話でも大丈夫かなと思い,電話をかけると,残念ながら英語.それならそうと書いておいてほしい.

しかも,予約番号やらを伝えなくちゃいけなくて,書類を引っ張りだしたりで大変めんどくさい.予約するのに比べて,キャンセルのハードルはものすごく高いです.

商売上,おいそれとキャンセルされたら困るのは当たり前で,当然ハードルが高いのも十分理解できます.むしろめんどくさい方がキャンセルそのものを諦められる可能性が高くなります.しかしながら,プロダクトを売ることと,商売を続けることはまた別の話ではないかなー,とも考えます.

そうすると,ネットという商取引だからこそ,その取引のプロセスとパタンが顧客によくわかるデザインが必要だと考えます.そのためには,キャンセルや取り消しといった,本当は無い方がいい事態に対しても,補完するサービスが今後キーと成りそうな気がします.
おそらく,キャンセルするのは双方心苦しいものなので,あ,キャンセルぜんぜんOKすよ!,ぐらいのノリの仕組みがあれば,そのことで逆に入り口も広がるように思います.

なーんてことを考えつつ,果たしてフライトはちゃんとキャンセルされているのか不安でしかたがない...