形式と内容とか

エレメントとステップを考えるにあたって、形式と内容を振り返る。

形式と内容である、といつも考える訳ですが、実際どういうことか?をちゃんと考えてなかったので、考えてみる。

何かもやもやと考えるからこそ、日々の生活が遅れる訳です。

例えば、何かをおもいついた、伝達せねばとおもい、絵を書いてみる。
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でも、えーっと、何考えてるか全くわからねえ、とこうなります。これは内容が先走って、形式が欠けている、ということになります。

では、何らかの形式を与えようとすると、例えば、文字という形式があげられます。
では文字にして表してみよう、とするとこうなります。
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えーっと、何か書いてあるらしいけれど、文脈が不明、まだ形式がととのっていないようです。

そこで、見出しとボディとフッターという形式を導入してみる。
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すると、ようやく伝達したい内容が構造化されているよう見え、形式が整ってきたように見える。レイアウトも何かのルールがありそうです。

で、やっと内容に目が向く訳ですが、全然たいしたことはない訳です。ただし、同じ位置におなじクラスの内容が書かれていれば、何をどう伝達したいのか、という思考の節約につながるだろうと思います。

つまりは、物事を伝達しようとするならば、他者との間で共有できるなんらかの「形式」にのっとっていなければいかんともしがたい。
それが例えば、言語であったりマナーであったり、身振りであったりする訳です。
もちろん、文化背景によってそれは異なったりするのですが、形式が整う、ということの意味は大きいように考えられます。

一方、内容はどうなのか?というと、形式に合わせる、内容がかわってきたり、そもそもいいたかったこととは別のことにつながるかもしれません。それはそれで、伝達するという目的に対しては合理的である。心情的には、ほんとはこんなことを伝えたいんじゃないのに!というシチュエーションもあるかと思いますが、そこは人間同士のコミュニケーションの「機微」というものでしょうか。

デザインにおいては、形式と内容、その双方がそろうことによって、一つの完成をみると思います。その上で、何を機微として残しておくのか?という部分が、難しい部分。


エレメントとステップはカタチ

エレメントとステップについて。

デザインは結果じゃん、であるとともにプロセスもあるぞ、と考えます。

結果を得る方法は、いくつもあるものだけれど、どの方法を選択するのか、というのを考えなければとも思う訳です。

たとえば、簡単な話として、正三角形を描く、という問題を考えます。小学校やらでは、コンパスを使って、線といエレメントを描いてから、線を引いたりして三角を描きますね。
線分

こんな感じに描けば正三角形を結果として得ることができます。

ただ、方法はこれだけじゃなくて、本当はいろいろあるはず。
そこで、ぼんやり考えてたら、ほかにも描き方を思いつきました。
まるで描く

丸だけで描いていったら、やっぱり結果として正三角形を得ることができました。

どっちがいい、っていうことは難しい問題ですが、例えば、最初の方法だとエレメントとして線分からスタートして円弧を用いています。一方、後者は一つの種類の丸だけで描くことができる。
一方、ステップ数だけいえば、最初の方が簡単といえば簡単。が、後者は、円を描く→移動する→60度回転する→5回繰り返す→交点を結ぶ、と簡単なステップといえば簡単。

美しい、を考えると、個人的には圧倒的に後者なのですが。。。

このようにして、簡単な例を出しましたが、カタチを考える上で、どのように造形を進めていくのか、ということの核心には、上記のようなエレメントとステップをどう操作するのかを思考していくことにあるのではないか?と個人的には思います。そして、その基準は、美しさであったり、あるいは、悪い言い方をすれば楽する方法、良い言い方をすれば合理的方法といった判断がなされるのかと思います。

造形について、エレメントとステップについて考えましたが、実は、デザインという思考をにおいては、カタチのみならず、ほかのことも同じように考えることができるのではないか?そういうところから、もう少しテーマを掘り下げたいと思います。


単純の繰り返し

決まりと連続について。

簡単な決まりが連続して運用されることで、豊かなイメージが生成できることがあります。例えば日の丸的な何かをちょっといじるとこうなります。

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で、自分の名前をいじるとこうなります。

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だから何だという話ですが、簡単なことで複雑なことができるという考え方は、原子の振る舞いがわかれば世の中が記述できるという、古典的な物理学の世界間とにています。

デザインでは、人間の力によって、様々な対象が決定されていきますが、結果からデザインを分解していくと、どのような決定過程、デザイン原理が適用されたのかわかるかもしれないです。そうすれば万人の万人に対するデザインが見いだせる可能性もあるとおもいます。

ただし、量子力学的な振る舞いは決定論的な過程とは反する振る舞いであります。デザインも、万人が万人で同じことをしても、結局結果がかわってくることも多いです。

量子力学的な振る舞いが、デザインにおいてはどのような振る舞いであり決定過程であるのか、そのことがデザインの学理を構築する上で考えるべきことだと考えています。

このことは、自然の様相が、簡単によて驚くほど豊かな振る舞いへと統合されていく過程と何か近いものを感じさせます。