戦争と暴走および闘争と逃走

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3月11日を越え1年が経ちましたが、状況は未だに進行中。ということで、引き続き原子力とは何ぞやという事を調べる日々ではあります。今回読んだ本は「原子力戦争」と「原子炉の暴走―臨界事故で何が起きたか」の二冊。タイトルから破壊力のある本。

「原子力戦争」は、朝まで生テレビでおなじみの田原総一朗さんの書かれたドキュメント・ノベルという形態の読み物。「むつ」という原子力船の事故の下りから公害問題、原子力発電所での隠蔽されているのではないかと思われている事故についての記述があります。

要は、原子力発電を巡る金権であるとか権力体系について、一般市民が伺い知る事のできない有象無象を小説というカタチで知るきっかけを与えるような本になっています。ああ、なんだかもはや戦後ではないとか、所得倍増とかナントカ景気とかそういう経済成長と国のあり方がリンクしているような状況で、個々人がどう振る舞っていたのかという時代感を感じさせるような読み物であります。

しかしながら、破壊力では後者の本が大。

「原子炉の暴走」は以前取り上げた原子炉解体も執筆された石川迪夫さんの本。原子炉が暴走を起こすメカニズムから、チェルノブイリをはじめとした海外での臨界事故の状況と分析、そして、日本における臨界事故・事象について平易に記した本です。

たいへん興味深いのは、原子炉、具体的には燃料棒が臨界を起こし、暴走するにはどのような条件が必要なのか、また、その条件化においてどのように臨界現象が推移するのかについて過去様々な実験がなされていた、という事実が記されている点です。ぜんぜん知らなかったの一言に尽きます。

我々一般の人が臨界、そして暴走と聞くと、すぐにチェルノブイリの爆発みたいな事をイメージしますが、実際には、制御された状況化で何度となく臨界暴走の実験を行い、燃料棒の破壊現象の検討や、原子炉そのものの破壊まで行われてていたそうです。

原子炉暴走実験
原子炉安全性研究炉(NSRR) (03-04-02-05) – ATOMICA –

単純化してしか説明できないのが恐縮ですが、原子炉が暴走する、といった事態がおこる場合には、まず、通常想定している反応度を超える反応を原子炉に投入した場合発生する、という事だそうです。

具体的にはいきなり制御棒を引き抜くとか、BWRの場合は原子炉圧力容器内の圧力が上昇し気泡が減少する、PWRの場合は二次循環系の主蒸気配管の破断によって(気化熱でしょうか?)1次循環系の冷却による再臨界などが挙げられます。

臨界によって劇的な事故になるのは、一気に発熱した燃料が溶融・気化する事によって、燃料被覆管が破れ冷却水である水にふれ、水が水蒸気となり圧力が上昇し、圧力容器を破壊する、という場合があります。ただし、そうなるよりも暴走出力を燃料被覆管が持ちこたえて、暴走が収束するなどの現象となるそうです。

原子爆弾は、この反応度が大きく、やたらめったら短時間にエネルギーが放出される現象となり、一方、原子力発電については、短時間にエネルギーが放出されるとはいえ、原子爆弾とくらべると緩慢な現象であるといえます。

以上のように、これらの実験結果が反映された設計の原子炉については、そもそも原子炉の暴走が起きたとしても原爆のような大爆発を起こすなどということは基本的は無い、という事が理解できます。

すると、福島第一原子力発電所は爆発したじゃないか、という話になる訳ですが、報道の通り、これは、水素爆発となります。先ほど述べた燃料被覆管が高温になると酸化するのですが、酸化によって酸素を奪われた水からは水素が発生することになります。なんらかの原因で水素が漏れて爆発したということです。原子炉が暴走して、そのものが爆発した訳ではない事が理解できます。(実際はどうかわかりませんが。。。)

原子力技術の開発についてのこれらの研究は知見は、やっぱり今まで十分にしらなかったことだなぁとあらためて感じるとともに、闇雲に不安がるのではなくフェアにその事実は評価する必要があると考える次第です。

が、、、しかしながら、この技術的背景を理解してなお、おそらく個人的にはたとえば現状の原子力発電の設備を持ってして発電を再開するということは、観念的に厳しいと考えています。

合理的理由としては、事故が起きる起きないに関わらず、使用済み核燃料のような核廃棄物の根本的な廃棄方法を人類が類としての種の存続をもってしても持ち得ないのではなかろうかという事実。以前とりあげましたが、それらがおおよそだいじょうぶかも、と思われるようになるには、何十万年の時間がかかるということに対してどうするのか。これに答えが出せないということ。

心情的には、いくら安全と喧伝していたとしても実際には事故が起き、かつ、事故のよる影響というのがとんでもなく大きいということを身をもって知ってしまった以上、これを続けるというのはリスクが大きすぎるのではないかということ。

もう一つは、最初に立ち返って原子力戦争で描かれた原子力を巡る金権や閥の形成というものが、時代感覚としてどうしても実感として有り得ないという状況にあります。これからの大きな経済成長、それに起因する大規模な電力需要の増大ということは、どうもないのではないか。むしろ、如何にスマートに国をシュリンクできるのか、この前人未到の試みに日本は挑戦しなければならないのだろうと思っています。

これらの事を考えると、小さな子供がいたりこれから子供が生まれるような世代にとって、原子力発電と共存したいのかという問いと、かつての経済成長と共に歩み、またその成長が自分の成長とを共通感覚として持った世代が原子力発電に託していた信念、その両者の対立といった状況に、事態は推移し置かれているのではないかと思われます。

つまり、原子力発電を巡る諸処の事項は、日本においては世代間闘争の様を呈していくのではないかと考えます。それは世代間闘争である以上、時間によってトレンドが若年層にどんどん有利になっていっていくでしょう。

で、、、もはや原子力は是であろうと非であろうと逃走できずご近所付き合いをせねばならいことも事実。だからこそ、後退戦をどのように進めるのかという技術であるとかスタンスをデザインするんだろうなということで、あー、ガイガーカウンタをポチってる昨今。



具体と抽象と中腰

普通に日常生活を営んでいると、抽象的思考をどんどんしなくなっていくのかなぁ、と最近考えるので、抽象的思考について考えます。自分自身が抽象的思考が得意なのかというと、なかなかそんなことないな、と思うので、それもまた悩ましいところです。

なぜ抽象とか具象とかが脳内フックに引っかかったのかというと、一つは、「抽象的思考」というものが、どうやら社会において価値を置かれる側面があるらしいぞ、と思った事。もう一つは、デザインとプログラミングおける抽象と具象との関係について、しばし考えることがあったから。

具象的

抽象的

ことばからスタートすると、抽象それ自体を説明するのは、抽象でないことから始めるとわかりよいのではないかということで、まず反対語から。抽象の反対語は具象。具体的なこと。実体を備えて固有の形態をもっていること。また、そういう形、と辞書に書かれています。だからなんだと頭を抱えてしまいますが、中身が詰まっていて識別できる状態にあることだとおもわれます。

例えば、美術の領域では抽象画と呼ばれる絵画形式があるのと反対に、具象画とよばれる形式があります。具体的である以上、人物や風景が描かれることによって、見る者が表現している対象がなんであるのか、明確にわかるということになります。一方、抽象画はなんだろうこれ、といったようで、指し示している対象が明確でなかったりします。

具体的に話せば、、、といった具合に話を切り出すことがありますが、これはたとえば、何をどうしてという事を詳細にお話をすることかと思われます。完結に話せよ、という場合は、お話を抽象化して結論から話をし、制限内で必要な情報を伝達する、ということになります。

これら具体的である事と抽象的であることがどちらが優れているとかいうことはないと思われるのですが、どうやら抽象的である事に価値があると思われるのは、抽象的であることは、汎用性が高いのではないか、と思われます。

抽象的であることが汎用性が高いとは、先ほどの絵画の例ですが、具体的な対象を描くということは、その対象が持っている具体性を伝えるものとなり、絵画の価値というものが、その描かれた対象の価値と直結すると言えます。美しいモノを描けば美しくなる可能性が高いし、そうでなければそうはならない。

一方、抽象画は概念(あるいは観念でありますが)を絵画として表現したものであって、その概念の美的な構造や特徴を端的に表現することで、例えば美しさを伝えることができるかもしれない。その概念は、例えば色彩の美しさかもしれないし、形象の美しさかもれない。その類的構造は普遍性が高くなる可能性が高いと言えます。

つまり、抽象的に思考するということは、一つの概念によって、様々な事象をとらえるという、まことにエコノミーな思考であるといえます。
ここで翻って、ビジネスにおいては、最小資源で最大効用を挙げたいのが理屈ですので、抽象的な思考によって、難しい問題を簡単に解決するという、ビジネスの本質となるのだなぁと考え至わけです。

しかしながら、なぜ人は抽象的に思考できないかというと、ひとつは抽象化することが面倒なこと、また、抽象は人と共有することが難しい場合があることかなと思います。

抽象化することが面倒なのは、目的が無いと抽象化できないにつきます。美しさを抽象するには、何が美しいのか、また、美しさはどういう点なのか明確にしなければ、複雑な具体の世界から特異点を残せず、不要な部分を削げなくなってしまいます。すなわち、明確な意志の力が必要な作業となります。

また、抽象が人と共有する事が難しい場合があるということですが、これは上記の抽象化の過程において各人が抽象として切り取った概念、その生成の過程が不明であるので、時として抽象化の意図が理解できないことが生じえます。そのため、抽象的でよくわからない、と言われる事態が発生しうるわけです。へぇ、たくさんの線がならんでますねぇ。。。という現代美術作品とかに往々にして生じる現象かなぁ、と。

以上のように抽象から具体にモノゴトを適用する場合、また抽象に圧縮された何事かを具体的に展開しなければならないという事になる訳です。この側面では、抽象的思考だけではなく、やっぱり具体的思考および行動に価値があるというフェイズになります。細かいごたごたが気になっちゃって抽象的なことまで考えがおよばないよ、ということでも、価値は当然ありますぜ!という展開でもあります。

さて、ようやくプログラムとデザインの話です。プログラマではないですが、プログラム的な何かを書くときには、抽象化の作業が重要です。
簡単なところですが、何かを変数として何かの処理を行う、という点で、まず抽象化が必要。で、ある言語だと変数の型が決まっていて、何を入れようとしているのかを、具体的に考えなければいけない。一方、ある言語だと厳密に型が決まっていないので、なんでもかんでも変数に突っ込むことができる。
それらの抽象度が高いのはどっちだ?という議論は難しいのですが、動けばいいという結論には違いがなかったりします。そういう意味では、抽象度が高い作業だなぁと思います。

一方、そのプログラムを受けてデザインをつくる場合、抽象的なプログラムを具体的な世界に結びつける作業がデザインの役割になったりします。ほとんどカタチのないプログラムに対して、人が理解し得るボタンやアイコンをつくるにせよ、四角や丸という抽象的なカタチからどこまで具体的なカタチにするか、あるいはしないかという判断は難しいです。

個人的には、点と線だけでいいんじゃねぇか?と思ってみたりもするんですが、それは抽象的すぎて情報の解凍ができなかったり。なので、より具体的な方向の絵をつくるために、ちょっとラインを加えたり、色をちょっと替えてみたりで印象が変わったり、そういう具体的な積み重ねがなんだかだいじだなぁと思ってみたりもします。

抽象も大事だけれども、具象も大事。このどっち着かずで中腰で耐える、というのが、デザインらしさだと考える次第です。

(という文章を書いて、長い文章かくなら、A < D < Cとかでいいんじゃねぇか、などと、長文失礼いたしました。)