良いお年を2024

 

I am FINISHER
I am FINISHER

先ほどからちょっと1年を振り返ってみると色々あったような、もっとやれたようなそんな気分に浸っております。

能登地震
1月、正月早々、兄弟甥っ子姪っ子を乗せた手運転中に激震。自宅に被害はなかったですが大変な被害に。秋10月にようやくボランティアに珠洲を訪れましたが道路の復旧もまだまだで、家屋の片付けも手付かずが散見。息の長い対応がやはり必要の意識です。

ボランティアの時の格好
ボランティアの時の格好

フルマラソン完走
3月に42歳までには同じ年のキロメートルを走るぞと決めていたので福井で初開催の桜マラソンにチャレンジ。なんとか完走しました。

久しぶりの海外とお仕事
4月5月のゴールデンウィークと8月のお盆ごろに海外出張でタイに。振り返ってみるとおそらくは2018年以来の海外なので隔世の感。あわせて数年ぶりの濃厚な人間関係の渦ですすめるプロジェクトに参加し、いろいろとご迷惑ご心配をおかけするなどとコロナ明けてしばらく経ちますが直裁に実感したところです。

現地調査をしている様
現地調査をしている様

iPhoneを15proに
iPhoneもコロナ禍前に購入したものをいまだにつかっていて、エイヤで新調。2018年と比べても圧倒的にスマホでやれること、やんなきゃいけないことが増えており、最新ではないですが今後に備えられたかなと。衛星通信したい。

来年は研究的な成果を出さねばなので頑張りますなのと、サーバ新調はやる宣言

それでは良いお年をお迎えください。


2024パリオリンピック閉幕と映画とハリウッド

上映
オッペンハイマーを見た映画の上映ポスターはこんな感じでした

先ほどパリオリンピックが終わりまして、朝起きては速報の結果を見ては感心しきりの約2週間でした。リアルタイムでちゃんと見たという点では、男子マラソンの赤﨑選手の楽しそうなランとゴールが印象的。一方で女子マラソンの最後のスペシャルドリンクお渡し失敗はあの距離だとツライとおもいつつ、鈴木選手も清々しいゴールだったかと。おつかれさまでした。

さて、この裏で関連づけられそうな映画いくつか、(ナポレオン、オッペンハイマー、東京オリンピック)を見たので感想を。

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東京オリンピック2020開会式の日とズルしない態度

国立競技場周辺は壁
国立競技場周辺は壁

前回の投稿からほぼ1年が経とうかとしている本日、2021年7月23日、とうとう東京オリンピックの開会式の日となりました。個人的には世の中の動きに合わせてなのかどうかかなりのピンチに陥ってはおりますが、ちゃんと生活する、ということがまずは第一で過ごしております。

さて、オリンピックはコロナ禍によって1年延期になり、延期になってもやるのかやらないのか、やるならどうやるのかというゴタゴタが続き、時間切れでその日が来てしまったという印象もあります。
特に記憶に新しいという意味では、開会式関係者の辞任相次ぐのがダメさに拍車をかけたな、、、という思いです。

これらの問題はスポーツそのものとはほぼ関係なく、オリンピックという興行にまつわる有象無象の魑魅魍魎の跋扈の果て、聖火に焼かれて成仏いただくのが望ましい事案ではあります。

これらの事案と、オリンピックに限らず、これから必要な態度は、ズルをしない、ではないかと思われました。

1) スポーツとしてのズル
スポーツはルールがありまして、ルールを破るのはだめ、ということになっています。勝つことが目的ではありますが、勝ち方のゲーム性をルールが担保していることが、いわゆる闘争や戦争とは異なる次元としてこれまでの隆盛を保っているものと考えます。
なので、薬物によるドーピングは禁止するなどある意味ではズルはダメということになっています。同じ条件下で競いなさいということで、それを受け入れて切磋琢磨すること、そしてそれを観戦することがスポーツなのかと思います。だから、才能や努力の結果を素直に応援したり喜んだり悔しんだりできるのかなぁなどともスポーツには感じています。

2)東京オリンピック問題とズル
ところがなんだか、今回の東京オリンピックの問題は、ズルにまつわるあれやこれや、という捉え方ができるのではと思います。

・国立競技場問題
ザハ・ハディドさん案が撤回、隈研吾さん案に。さらりと振り返ってみると、手順をすっ飛ばして、コンセプトワークや予算規模などの前に、見た目や偉い人との意思決定を優先させたしまったズルで、事態が紛糾したのでは、とおもわれます。

・エンブレム問題
単純に、それでいいの?っていうカンタン図形でなぜそのロゴで、どういう理念かよくわからないまま、パクってると言われて撤回。これはパクったというが言いがかりな感じも受けますが、それを跳ね返してあまりある何か、が欠落していたのだろうとも思われます。理念と図形との核心をつくる部分をズルした、、、のではとも思われます。

・政治家的な偉い人が辞める問題
政治家なので、ズルするのが仕事みたいなところがあるのかもしれませんが、これもズルを仕方ないと思わせる何かがないため後味の悪い感じです。

・クリエイター的な人が直前でどんどこ辞める問題
書くのも憚れますが、なんで選ばれて、何をするのかわかんないまま、そして叩かれて辞めていくという。過去のズルが蒸し返された事例と思われます。

モノづくり周りには、やはり時間や手順、決定プロセスが存在するわけで、そのしきたりやルールを破って何かをやったりするのは歪み出てくるものと思います。その歪みを理解した上でいなしていくことはズルではなく努力や知恵、技術とおもいますが、これに向き合わないとダメになるんだと思います。
また、過去の過ち的な、脛に傷ある的なのは生きてる以上はなにがしかあるとは思います。が、その過去は過去として有耶無耶には、ググれば出てくるという昨今、もうできなくなくなっている社会であると思います。と書いたところで水上勉さんの「飢餓海峡」がふと頭をよぎりましたが、プライバシーではなく、公に行われたズルは応報されるのだな、、と身をつまされます。

3)なのでズルと向き合う
翻って、オリンピックのコンテンツたるスポーツは、いかにズルをせず、ズルをさせずに競技するかという理念があるのに、その周辺とのギャップたるや滑稽でもあります。とはいえ、叩けてないだけできっとIOCそのものがズルの塊だったりするかもしれないので社会とは難しいところです。

一方、私自身にひきつけて考え腹に落ちているのは、身体的にも精神的にも騙し騙しやる、とか、そこはかとない落ち着かなさという、直観に反する生活をしていると体を壊す、ということ。いわば自分でズルすると、自分に跳ね返ってくるということを改めて感じている次第です。これは、この1年とオリンピック事案とを重ね合わせるとおもうところで、たまたまうまく行ったことは偶然や幸運であって後になってみるとそうでもないことはあるんだろうとおもいます。

とはいえ、ズルに革新や理念、特別性があった場合には、それはズルではなく賞賛の対象になったりもします。ここの匙加減もやはり難しいところで、どういう態度やどういう文脈に置かれるのかで話が変わっても来ます。また、成仏と冒頭につかいましたが、仏教界には意外とチート技が用意されていることもあったりして、興味深い部分もあります。さらには、そもそも延期の原因たるコロナ禍と、ズルについてもいろいろと切り口がありますが、まずはズルをしない理想としてのスポーツ、その祭典たるオリンピックをこの視座で捉えて開会式を迎えたいと思います。