デザインの研究のためのデザイン

デザインの研究と、デザインで研究について。

デザインの研究は、デザインとは何ぞやということを明らかにしようとする欲望かと考えます。
この実施者は3分類できるかと思います。

一つはデザイナー、一つは科学者、一つは芸術家。これらの実施者は必ずしも排他ではなく、個々人の成分として比率は異なりますが、仮に3つおきます。

デザイナーは、よりよいデザインをすることを目的として、よいデザインを実施する方法を見いだそうとします。なので、デザインとは何ぞやという欲望は、デザインの方法は何ぞやという問題にブレイクダウンできます。
科学者は、一般原理を見いだそうとします。デザインをデザイン足らしめている現象をつぶさに記述して、デザイン概念の構造と機構を解き明かします。よって、デザインとは何ぞやという欲望は、デザインの結果は何ぞやという問題にブレイクダウンできます。
最後の芸術家にとってのデザインは、デザインという現象に対する純粋欲望であろうと考えることができます。詰まり、デザインとは何ぞやという欲望は、私の中のデザインとは何ぞやという問題にブレイクダウンできます。

デザインの研究というのは、デザインを眺める視線からいろいろと切り口があるのですが、どうやら上記の3つくらいに区分できるのではなかろうか?と最近は考えます。

もちろん、商品デザインなど、売れるデザインとは?という問題の切り口もあるのですが、これは、デザインが出て行ったあとの社会現象を眺めることになるので、デザインを実施しながらの研究とはちょっと違った視点にたちます。また、よいデザインという定義自体が、ぞの評価者自体に依存しているので、例えば、よいデザイン=売れるデザインという定式化ができるならば、上記の3つの区分でも適用できるといえます。

さて、デザインの研究というのは、これらの視点がないまぜになりがちだから、個人的には混乱するのだろう、と思います。難しいところです。

では、デザインで研究とは何なのかというと、どんなことでも意図や動機、それに伴った手続きや計画が発生します。それら発生タスクを、効果的にするには、どうもデザインによる思考が効果的ではなかろうかと感じます。そういう意味では、研究をデザインする、ということすらもデザインであろうといえます。

現に、医療分野の研究では、研究の実施計画をたてることを研究デザインとよんでいます。それは、研究目的を研究目標にブレイクダウンし、そして研究手法をたてて研究結果を得るとうプロセス全体を考えることが、デザインであるという意図であろうと考えます。

そもそも、人生はデザインだぜ、という生き方もある訳で。デザインが多義的でますます大事でよくわからないコトバになりつつある現代社会。

デザインというコトバのデザインの研究のためのデザイン、なーんて。
desi


Medical Design Excellent Award 2009

Medical Design Excellent Award(MDEA) というものがあります。アメリカの医療機器についてのデザインアワードです。

分野ごとカテゴライズされていますが、まずは医療機器といってもたくさんの種類があることに驚きます。そして、みたことがないような機器が登場して、興味深いです。
デザインという視点から、医療機器を評価している点も面白いです。これもデザインなのか!という商品も多いです。

例えば傷を塞ぐ接着剤?みたいなモノが受賞しています。

じつは、いわゆるシアンアクリレートを使う、アロンアルファだろうと思われます。
従来、緊急で傷を塞ぐために、アロンアルファを使うということは知られていますが、それを医療機器として特化しちゃったことに驚きを感じます。

レモン?じゃなくてこれは補聴器。

耳の奥まで挿入して装着しているのが見えない、120日電池が持つ、とこうあります。
従来の補聴器は大きくて、耳の外に何か装置があることが多かったですが、この補聴器は、全く見えません。
ある意味では人工臓器としまで位置づけられるような、絶妙さを持っています。
別のデザイン賞でドイツのiF賞というのがありますが、たしか初年度の(1954年ごろ)受賞対象も補聴器でした。それが50年以上を経て、進化したのだなーとおもいました。

日本においてはデザイン賞としてグッドデザイン賞(前身がグッドデザイン商品選定制度)があります。1984年に対象を一般商品から産業機器などへ拡充したことで、医療機器も選考対象となり、多数受賞しています。
しかしながら、MDEAほどカッティングエッジな商品はあまりないのも事実だと思います。
おお、なんだかそわそわせざるを得ません。

Good Design Award
Medical Design Excellent Award(MDEA)


媒介者・人間コンパイラ・エージェント

インターネット上での情報生成について。

インターネット上の情報は、どのように生成されるのか?
この時に、人力であるのか、自動であるのかに特徴があると考えます。

人力について。例えば、このブログ、これは私がキーボードに向かってかたかたとキー入力をしていきますと、文字がスクリーンに現れて保存されてゆきます。
つまり、私がコンピュータに向かって何らかの動作を加えない限りは、生成され得ない情報であるといえます。

一方、自動の情報生成について。
まずは、ネットワーク上の信号のやり取りの交通整理は、ネットワークの決まり事をコンピュータが識別してかってにやってくれています。よって手っ取り早く自動に生成される情報として、このネットワークのトラフィックの状況があると考えることができます。
また、防犯カメラの映像などを記録するとなれば、これはずっと録画するならば自ずと情報がずっと生成されていることになります。

以上のように、大雑把には人力なのか自動なのかに区分されて、ネットワーク上の情報は日々蓄積されていると言えるでしょう。

ただ、当然のことながら、何らかの意図に基づかない情報には、あんまり意味がない。よって、情報の抽象度をあげていく、すなわち、情報の意味を要約することで、使い道のある情報として存在し得るようになります。
ここが、今のネットワークによる情報共有の大きな障壁となっていると考えます。

すなわち、意味のある情報がネットワーク上に流通するには、まずは一次情報としてネットワーク上に生成されなければならない。そこで、ブログサービスや写真や動画の共有サービス、さらには、つぶやきまでもがTwitterというサービスでネットワークによる情報共有のためのツールとして登
場しました。でもやっぱり、その情報をネットワークにあげようとする、人間の意図がない限りは、共有され得ないことは否めでしょう。

つまり、今のネットワーク環境において、実世界からネットワーク世界へ情報を橋渡ししている人間が、この世の中には確実にいる、ということがいえます。

実社会において、ネットにどれだけ依存して生活しているのか、という点については個々人にばらつきはあるとおもいますが、ネットになかったことは、世の中でもなかったことになる社会になりつつあるのではないか、という感覚を最近は特にもちます。
よって、人力に依存した情報生成によってネットワークの意味ある情報が付加されていくならば、その付加する人には正確な情報を意図を持たずに機械のように生成していくことが今の技術水準では求められており、それがネット産業を支える基本的労働力となっているとおもいます。
また一方で、明確な意図に基づいて情報を取捨選択し、発信していくというのも、もう一つの方策として当然ながら重要となるとおもいます。

以上のようなことをなぜ考えたかというと、ただただ机にかじりついて、ネットに情報をあげようとしている自分を客観的に見たときに、実社会からネットワーク空間へと情報を変換する”媒介者”としての自己の存在を見いだしたからです。そしてその情報は機械的であり(すなわちだれでもできるようなこと)、人間コンパイラとしてHTMLに記述しているのかと思うと、なんだか悲しいじゃないか、と思ったのです。

そのあたりの、今は人間が媒介しなければならないような情報変換を、どうにか自動化できないだろうか。
その願望は、いわばエージェントとしてのロボットとして結実するのではないかとおもいます。

huma