突然ですが、直感は大事だとおもいました。
というのも、今日は天気がいいので洗濯物を干して、美術館にいこうと思い、あまり詳しくないので、東京都現代美術館に行くことに。サイバーアーツジャパンというメディア芸術の企画展を実施しているらしい、とここまでは押さえて地下鉄に乗った訳ですが、到着後twitterを観てみると、阪大石黒教授と明和電機土佐社長 (@MaywaDenki)との対談!があるということをケツダンポトフのそらの (@ksorano)さんのtweetで知る訳です。
もしかすると、Twitterを流し読みして読んでいたのかもしれませんが、まったく記憶がありません。おおお。
さて、イベントタイトルは「バカロボへの道」。ロボットコンテスト「バカロボ」を題材に語り合う、ということなのですが、第一部は、「バカロボ」DVD上映、第2部はバカロボ学会と題して、日本のメディア芸術とロボットカルチャーと題して語り合うというものでした。
対談の流れはまず最初に、土佐社長がバカロボに至った経緯を自身の作品の進化を説明して語っていきます。その作業は、自分を理解する手法として、NAKI シリーズとエーデルワイスシリーズについて作品解説をおこないました。
自分がわからないから、まず分解しようというアプローチがNakiシリーズで、自分では無い女性をテーマにしたのがエーデルワイスシリーズということで、なるほど、これは芸術であると全く納得できました。
特に、人間の声帯を模した機構を有する二つのマシンを説明。(タイトルがわからず、図録買えばよかったと後悔。。。)しゃべるというよりも、声のような音を発する機械は、生き物と近接する何か、に向っているような気がします。
石黒先生は、人間を理解するための手法としてのロボットをコンセプトにプレゼン。最近公開された映画サロゲートを例にとり、そのような未来がくる、とのこと。そしてロボット研究における不気味の谷を超えるアプローチとして、ちょーリアルな造形物をつくった結果についていろいろと話。
面白いとおもったのは、石黒先生にそっくりのロボット(われわれは俗にイシグロイドと読んでいたのですが、、、)を使った実験で、ロボットは遠隔で誰かが操作して話をする、というモノです。説明が難しいですが、ある夫婦と石黒先生が場におり、奥さんがイシグロイドを遠隔で操作し、夫と石黒先生とイシグロイドが話をする、という状況があります。このとき、石黒先生がイシグロイドに抱きつく、と、遠隔で操作しているはずの奥さんは悲鳴をあげ、夫の方は石黒先生を本気でおこる、とうことだそうです。
物体だけを観れば、石黒先生が自分を模したイシグロイドに抱きついている奇妙な状況ですが、その裏に実際の人がいることによって、ロボットを媒介とした不思議な社会が構築されるという事例です。
さらに、オーストリアのカフェにイシグロイドを放置し、裏で石黒先生が動かしていたところ、半数の人は気づかない、気づいた人も裏で石黒先生がいることがわかると普通にコミュニケーションをとってきたそうです。へー!
こんな電話があったとすると、電車の中でもしかられない、という話は笑えました。
故に、この次として、人間を超える部分を持つロボットとしてのマキシマムデザインと、人間が人間の造形物として最低限人間だと感じられるぶぶんをとりだしたミニマムデザインについての方向性を示しました。
始終、石黒先生がばっさばっさと既存概念を切り捨てていき、人間に心は無い、というなんと!な結論。また、土佐社長は、われわれは教祖であるとのまとめまで飛び出す、なんともおもしろいイベントとなりました。
芸術にせよ研究にせよ、something newをつくるのはだれもが教祖であるよな、と思う次第です。
こんな話を聞いて、ロボットと思考する機械について、そしてロボットはどういうカタチで自分の生活に入り込んでくるのか、考えました。
まず、ロボットと思考する機械について。バカロボにせよ、土佐社長の作品にせよ、ロボットや造形物自身が何らかの思考を行うということは無いモノばかりであり、あくまでロボットの作り手である人間とオーディエンスである人間との間に存在するインタフェースの造形であると言えます。また、石黒先生の研究は人間を知る新しい発見がありますが、今回のトピックは源流は各種SF作品にヒントがありますし、特に士郎正宗氏の攻殻機動隊の世界における擬体のようなモノはどうあるべきか?という造形上の課題として位置づけることができます。
さらにいうと、情報収集と解釈については、簡単なことであれば、Webの情報検索の仕組みによってある程度できるとすると、ロボットが思考すると大層に考えなくてもいまでもパソコンで常識的な情報処理は実現できてしまいます。
故に、思考する機械とはなにか?ということに関して言えば、喜怒哀楽をのぞけばいまでも充分思考しているよ、とこうなります。さらに、人間にも心が無い、ということにしてしまえば、ロボットのような造形物の向こう側でどのような処理が行われていようとも、表出する表現が適切であればロボでも人間でも関係ないぜ、と言えます。
では、ロボットはどういうカタチで自分の生活に入り込んでくるのかについて。
ロボットが自分と対峙したときに、そのロボットの向こうの複数の人と話すとしたら、カタチが同じままでよいのだろうか?、もしくは、一つのロボットに対して複数の見た目を割り当てていいのか?について考えました。
ここで、今のパソコンをイメージするなら、メールやチャットなどでは相手を想像しながらテキストを入力しますが、実際の相手を知っている場合と知らない場合があります。
その区別を取り払うのが、アバターのようなシンボルとなります。ロボットが人と人との間に介在するインタフェースとなるならば、このようにアバターとして相手を想起できるようなカタチにかわってもらうのがいいのかも。
一方で、データの表示のように入出力が個人ではないような事項の場合には、別に相手のカタチにかわる必要が無い。そういう意味では、見間違えること無く自分のロボット、と特定できるようなカタチがあればよいということになります。
これらのことをぼんやり考えながら、いきなり飛躍しますが、つまり人間と共生するロボットというモノを構想してみると、それは3次元ディスプレイである、と思いつきました。
ロボットに対して対話を行う、あるいは、ロボットを介して他者と対話を行う場合、そのコンテンツによってインタフェースの形態はかわるべきである、といえます。
携帯電話にせよ、iPadにせよ、パソコンにせよ、ディスプレイと入出力装置によって様々な機能を実現しています。今では、どこでも、いつでもこれらのデバイスを使って情報をやり取りしています。
ロボットがそれらの機能を肩代わりしてうまくやってくれるとするならば、ロボット単体で勝手に仕事をしている存在とは別に、使用者である自分の能力を広げるような傍らにいるロボット従者のような存在も想定できます。つまり、そいつは5感を持ち、コンテンツにあわせて見た目がかわってくれるような、3次元のディスプレイのようなモノではなかろうか?ともやもや頭のなかに浮かんできました。
こう考えると、ロボットが勝手に暮らしの中にあるとイメージするよりも、ぐっと安心したイメージになるなー、と個人的には勝手に合点がいきました。
で、さらに、ロボットに、自分が何となく思いついて今回のイベントに遭遇したように直感が備わったとしたら、そりゃーもう人間的な何かを感じざるを得ないだろうなー、とひらめく訳です。