Brick of the Pyramid

Bottom of the Pyramid(BOP)について。ミーティングの議題となりました。こういう話ができるのは、まさしく大学など研究機関であるからこそであると思います。(もちろん、実用化などのハードルがある訳ですが。)
BOPというのは、一日2ドル以下で生活をするいわゆる開発途上国における貧困層のことを言います。
ミシガン大学のC.K. Prahaladさんによって書かれた本で提示されたことで比較的広く知られるようになってきたそうです。観念としては、一握りの裕福な人がいて、それにつながる経済状態が貧困な人々がいるのはイメージできるのですが、おおまかな定量的イメージで再度定義したのが新しいのだと思います。
この本を書いた動機はいまいちわからないですが、ミシガン→マイケル・ムーア→Roger & Meを思い出すので、米国内での中間所得者層の生活水準の低下に憤っていたのかななどと想像します。(Roger & Meというのは、GMの工場閉鎖によって、その地元であったミシガン州フリントで大量のリストラが出た問題に対するドミュメンタリー作品。GMが破産法を提出した昨今、合理化によって何をえたのか全くGMという会社の存在がわからなくなる作品です。今の日本の企業も、同様の事態になっているところは、寿命は長くないという照査になるかもしれません。)
さて、BOPに対して、政府による援助や慈善団体による支援とは異なった、企業が継続的に利益をえて活動する形態の国際間支援のあり方として、BOPビジネスということばで取りざたされてきています。
資金を投下するのではなく、BOP層のニーズを満たすような製品をつくることによって経済機構に位置づけようというビジネス形態であるといえます。
施す、というのではなく、現実的利益を上げようというのが、非常にクールな戦略だと感じます。
ミーティングでは、そのためのアイテムアイディアをいくつか出したりしました。
ただ、誰のためのどういうものなの?っていう根本的な部分を掘り下げていくと、日本という自分のおかれた状況と、開発途上国の人々、企業活動のあるべき姿とはどういうものなのかと、深刻さのある考えを巡らすことにもなります。
この議論中、個人的に話しながら考えたことの一端をまとめておくと麗しいストーリーとその実際想定できるある意味では麗しくないストーリーということ。
麗しいストーリーは、生きることすら難しい環境におかれた人たちに、役に立つものをなるべく安くつくって届けるということ。そのために、提供側が努力して安くてよいものを安定して供給するという仕組みができたら、みんなハッピーになるということ。
ただ、そのことを実現しようとすると、結果として想像できる構造も示唆できます。これはODAといった資金提供と現地支援の話にも関係するかと思います。
ODAというのは、政府開発援助というもので、先進工業国が開発途上国などに行う援助や出資というもの。これは、ただお金だけだしてる場合もあるにはあるのですが、実際には資金に使途が決まっているひも付きの資金や、既に土建事業などある意味物的な援助であったりします。
単純に、それで生活が楽になればいいのですが、土建事業など技術が必要な事業の場合、支援相手国にその技術力がないことがあり、結果として出資国の企業が事業遂行の主体となることがあります。
一定の現地雇用が発生して支援資金が現地に落ちることもありますが、一方で出資国内などの企業や、現地の特定企業に資金が集まることもあり得ます。
そうすると、結局、出資国内で集めた税金が、出資国内の企業に戻ってくる、ということになります。
当然、国が直接事業を遂行できるわけではないので、企業が実働するのは当たり前なのですが、どうしても企業への利益誘導を目的としてODAなどが用いられる可能性もあり得ます。よく考えると、どうも麗しくない!という印象が持たれるかもしれません。
では、BOPビジネスはどうかというと、大きな箱ものではなく、あくまで開発途上国で生活する個々人のニーズにあわせた、より個人に手が届く製品をつくり、そしてそれが買われることでビジネスが成りたつことに、ちょっとした違いがあります。
しかしながら、ODAなどと全く違うかというとそうではなく、単にマクロ的に一挙にがつんと資金を落とすか、貧困層の一人一人にミクロに資金が分散されるのかの違いにすぎないとも言えます。
つまりは、製品をつくることができず輸出できない開発途上国で、地下資源や自然作物など天然資源を先進工業国と貿易をすることで資金が開発途上国に入ったり、無償でひも付きでない資金が開発途上国に供与されたりして、一定の資金が開発途上国に入り広く人々に行き渡ったる。そうすると人々の購買力が向上する。そこで、人々が必要とする製品を先進工業国がつくり、安価に提供することで「売れて」しまう。そうすると、結局、生活に必要と思われる製品を開発途上国のBOP層の人々は手に入れることができるのですが、流通する資金は再度先進工業国に戻っていくことになり(さらには、特定企業に集中することも想定できます)、開発途上国内でやっぱり資本としての資金がたまらないということになるんじゃなかろうか、と考えることができます。
今だって自動車やパソコンなどは先進工業国でしかつくれない部分もあるし、前述の構造はなりたっているのですが、BOPビジネスでは、先進工業国でも使うような高度な製品ではなく、BOP層のニーズにあわせた製品を作るという意味で、それなしでは生活できないような状況を作り出すことにも成功するかもしれません。先進工業国の企業が、直接市場を抑え独占できる可能性があり、ビジネスとして有望である一方で、なんだか企業活動に対する消費機構として開発途上国が位置づけられてしまう可能性があるのが、なんだかもやもやと嫌な感じを受ける部分でもあります。
個人的には、現地の生産性が向上し、自国内で経済がうまく回るよう支援できるようなプロダクトのデザインが必要、とかんがえます。それは、社会の一員として健康に幸せに生活できるための医療関連プロダクトがまず一番になるだろうと思います。次には、食をえるための器具、住まい、衣類などがあげられます。さらには、いわば知識を蓄えることのできる教育のためのプロダクトも見いだせると思います。
それらのプロダクトが、安かろう悪かろうではないような、質と理念をもったモノにデザインしていくこと、それが自分を含む若い世代のデザイナーが取り組むべき課題であると結論づけることができるでしょう。
なーんて、かっこいいことを言ってしまっていますが、例えば土って燃やしたり喰ったりできないかなぁ、とアホなことを考えていたりするので、まだまだ修行が足りませんなー、と感じるのです。でも、土っぽいモノからピラミッドもできているし、きっと何かあると日々精進をこころがけます。


作業中

作業中のファイルで何となくおもしろい絵ができたので,キャプチャしてみる.

ピクチャ 4

もはやなんだかわかりませんが,目をほそめると?だけあるのがわかりますね.


改正前夜

6月18日,衆議院で臓器移植法の改正案が採決されます.脳死の方から臓器するということです.

日本の臓器移植に関する問題として,

  1. 他国と比べて臓器移植が進まない
  2. 臓器提供の意思を示さなければ臓器摘出ができない.すなわち,脳死の概念などが理解できる年齢でなければいけない.そのため,子供からの臓器提供ができない.

などがあるそうです.さらに,WHOの勧告によって,臓器移植はそれぞれの国で自前せよ,となりそうなこと.アメリカなどで移植を受けるといったことがたびたび報道されますが,それが原則できなくなる可能性があります.これと子供からの臓器摘出と関連します.

これだけではなく.実際には臓器売買といったマーケットの存在も残念ながら否定できません.倫理的問題が常につきまとう問題です.

日本の場合は,大脳,小脳,脳幹のすべての機能が不可逆に廃絶したときに,脳死となります.特異なのはイギリス,脳幹の死,すなわち生命機能が廃絶したら脳死となる脳幹死を採用している点です.夢を見ているのかもしれないじゃないか,,,という人はすなわち死んだことになってしまうという,何とも実利的というか,恐ろしく感じる基準です.逆に,大脳や小脳の機能が失われても,脳幹が生きていれば,それは植物状態となり,日本でも脳死とはなりません.

これら判定基準に,小脳は本質的には関わってないということで,そんなに無視してもいいのか?という疑問を以前研究していたので,この辺りの問題はなかなか難しいと感じます.

どの決議案となっても,臓器移植を進めよう,というバイアスが強化されることに違いはありません.しかしながら,デザインの立場からは,ブリッジでもいいから性能の良い人工臓器が必要なんではないかと感じます.現在,心臓に関しては,移植まで心臓機能を補助するということで,bridge to heartという概念のモノが使われています.

補助人工心臓や人工透析装置など,体から管を出して,体外にある機器に接続するという現状のシステムは,いったんトラブルがおこれば修理や交換が容易というアドバンテージがある一方,体外にあるので自由に動き回れないなど,QOLが低いことは否めません.少なくとも,体表下に埋め込むようにした方が,見ている方としては安心ができるように思うのです.