バウハウスとキッチンとカブトムシ

バウハウス・テイスト バウハウス・キッチン展」、という展覧会に先日おでかけ。

バウハウスは1919年に設立された、モダンデザインの起点とも言える教育機関。
「すべての造形活動の最終目的は建築である」との理念のもとにワイマール政権下のドイツで立ち上げられました。

それ故に、印刷、舞台演劇、写真といった工芸芸術のカリキュラムから、家具などの日用品に加えて建築設計までを統合的にあつかった教育機関でした。そのなかでも、キッチンに着目したのはおもしろく、なぜ?ということでまずは足を運ぶわけです。

というのも、この展覧会の企画は、パナソニック電工が行っており、キッチン、バス、トイレといった住宅設備のショールームと併設されているギャラリーで行われていたからなのです。

個人的には、バウハウス関連の展示会は基礎造形の作品をみるのが楽しみ。イヤーすてき。キッチンという観点からは、三角形や正方形、円形を元に立体造形を行っているのがまた楽しかったりします。服のデザインもやっていたそうで女性の進出がなされていたりしたそうです。

バウハウスと聞いては展覧会をみている気がするのですが、ひとつ疑問に思っている事が。それは、なぜ重化学工業をデザインの対象としなかったのか、ということ。私自身は機械工学という古典的な工学分野の出身なので、デザインの対象としてのメカニズムはあり得るのですが、そういうデザイン物は少ない。
ここが違っていると、その後のデザインということばの性質もちょっと変わっていたかもしれないと思っています。
なんだかもやもやするので、ドイツの状況、資本と労働の関係、機械に対する悦楽について考えてみる事にします。

まず、バウハウスが成立した1919年のドイツというのは、第一次大戦のドイツ敗戦直後で、生活の改善がまず先決であったというがあげられると考えられます。そのための対象は生活一般であり、そして建築であったと考えます。生活第一、いつぞやの政党CMのような状況だったのだろうと想像します。

資本と労働の関係からは、手工業的なモノづくりと、工場でのモノづくりの違いがあるのかもと考えます。ようは、つくるという行為そのものが生活と密接に関係しているようなバウハウスのデザインと、労働者に疎外感を与えるような工場生産との関係から、重化学工業が採りうる生産方式である工場生産に対する暗黙の拒否もあげることができると考えられます。

で、最後に、若干飛躍しますが、そのような機械に対する悦楽がヨーロッパ文化にあんまりないんじゃないかということがあげられます。少なくとも、それは芸術では無かったのだろうと思います。歴史的文脈による芸術思想に加えて、デザイナ本人の感性と技能に由来するデザイン結果は、動的ではなく、意識的にか無意識的にか静的なモノに向っていったのではないかと考えるしだいです。

さて、結局バウハウスは、いろいろな変遷を経て、ナチスドイツ政権下の1933年に閉校となりました。奇しくも、工業生産物のエンジニアリングデザインとしては、たいへんな成功を収めた自動車の一つである、フォルクスワーゲンのタイプ1の誕生のきっかけとなる国民車構想が打ち出されました。

キッチンは一家に一揃えなければならないという静的な考え方から、自動車が一家に一台あったらいいんじゃない?という動的な空想も描けること、時代を下った現代でデザインをするにはそのあたりの嗅覚が必要なのかなと考えるに至った次第です。


幾何的な生態系

News app capture image
ニュースアプリ

iPadを入手し、使用開始から56時間ほど経過したでしょうか。このうち、さわっていたあるいは観ていた時間はまだ10時間ほどだろうとおもいます。

個人的に気になっているのは、各社のニュースアプリ。BBCは起動画面がカッコウイイ。APはインタラクションがすごい。なかでも、France24のアプリは、新聞とも、テレビとも、雑誌ともつかないつくり。操作しなければならない、というスタンスと、操作をしなくてもいい、というつくりがいいあんばいなのであろうと思います。

操作しなくてはならない、という切迫感よりも、気が向いたときにいじればいい、という緩いインタラクションが、例えばtwitterやらと似ているように思います。

人間が楽できるためにプロダクトが存在していると考えるならば、プロセッサの入っている機器はすべて自律的な生態系をつくってもらえるのが望ましい。入力と出力という関数的な捉え方ではなく、機器の振る舞いを人間がディスターブする、あくまでも、幾何的な存在としてiPadを使えるのではなかろうかと考えています。

さて、それはそれで、入力しないと出力できないという、生命の理にしたがって、いろいろな入力を求めてはぶらぶらする訳です。今回はICC(Intercommunication Center)へ。

ICCはNTT東日本が運営しているメディアートなどの作品を展示したり、イベントを開いたりしている場です。
先ほど、今年のテーマ展示が開始されたので、初めて訪れる事に。衝撃の作品はクワクボリョウタさんの《10番目の感傷(点・線・面)》

暗い部屋の中に電球のついた鉄道模型が走ってるという、つくりとしては非常にシンプルなもの。その結果、壁面に影ができるというアナログな表現。なのですが、これは面白い!影が伸びたち縮んだり、そして突然の闇と突然の青空(的な表現)に出くわします。ハコに入らないと感じることはできませんが、すごく心地よい。

なにがいいのか?というと、このプロセスの明快と常に移ろって生成されるイメージ。これらのロジックに文字通り包み込まされるというではないかと勝手に考えています。
翻って、日々の生活におけるシステムは、ほぼその仕組みを100%理解する事が難しくなっています。仕組みを利用して目的は達するけれど、もやもやとした不可解感は常に身体にこびりついているはずです。
自然現象であれば、それはそういうもんだと受けいれることができますが、人工物であれば人知の範囲であるはずなのに、そうもいかないです。

その意味では、今回の展示は、わずかな知的資源でもって存分に理解し共感し得るという点において、都市の中の一角で展示されている価値を個人的には見いだしうる訳です。
などといってもわかりにくいので、ぜひお時間あったら行ってみてください。太っ腹で入場無料です。

補足ですが、展示にあたって出展作家さんの公演もあったりで、外国からの作家さんの話を聞いたりもしました。突然プロモツールを配布するなど、ビジネスマインドも重要だよな、と思いつつ手に取ったポストカードは英語と中国語表記でした。日本なのに!
現代アートも、ブレードランナーの世界のなかで育っていくのかもしれません。。。


メッセージとマッサージ

遅ればせながら、iPadをさわらせていただきました。ありがたい話です。

iPad
iPad

所感としては、一つ、ディスプレイがきれい、一つ、片手で持つのは大変、一つ、実際使うとなると傷だらけは覚悟、といったところです。生活の中では、積まれた本の上に置かれることが必至じゃないかと勝手に合点がいっています。

さて、このこの数ヶ月、インターネットのサービスやコンテンツが、実際にぐっと自分の生活を包み込んできたような心持ちでいます。これは、個人的な感覚なのか、それとも本質的な変化であるのか、奇妙に思っていました。

個人的に感じる、iPadの可能性やネットの変化、これがどれくらいのインパクトを今後の社会にもたらすのか。例えば家族や知人は、そういう方面は全く疎いので、説明してる自分が変なのかも?などと若干不安になることもしばしば。じゃ、どうするかということで、直感がささやいたマクルーハン先生をひもといてみました。直感なので、適当なことも出てきますので、その辺りはひとつ。。。

マクルーハン先生というのは、「メディアはメッセージである」ということばが有名です。このことばは何を意味しているかというと、情報伝達において、その意味する情報の前に、その情報が伝達されうる媒体=メディアそのものに、重要な意味があるという主張です。(という雰囲気がwikipediaにかいてあります。べんりですね!)

さて、メディアというコトバについて、ほんの数年前までは、電話に新聞や雑誌、テレビやラジオ、最後にwebブラウジングという、メディアに最適化されてきたモノと情報が密接に絡み合い、そのプロダクトを使うことによって、だれもが違うメディアであると識別できうる存在でした。

もちろん、それらの成り立ちや得手不得手、社会的位置づけはまちまちで、それゆえに「メディアはメッセージである」ということばも比較的実感をもって理解することができました。

ただし、今取り上げようとしているメディアはそれとはことなります。取り上げようとするのは、twitterとよばれるマイクロブログ、ustreamというネットの映像配信プラットフォーム、そして、foursquareとよばれるジオタギングをメインとしたプラットフォームです。これらをご存知のものと仮定して、、、

これらにみられる共通点は、インターネットが使えればどこでも使えること、コンテンツは利用ユーザ自身であること、プライベートメディアとマスメディアが曖昧、などいったといったことがあげられます。そして、なんらかの定型的な区切り方ができないコンテンツやメディアであるといえます。

プロダクトデザインの観点から、さらにこれらを統合するならば、人間とメディアとの最後の境界1mmになにがあるかってことかと思います。その意味において、出入り口となるスマートフォンにスレートなどなどは、新しい何かのインタフェースとして、メディウムとして本来は形態を持たないディスプレイの一断面を切り取ったモノたちだといえます。イメージとしてはこんな絵になります。

cut out
こんなイメージ

従来はこれらの不定形な有象無象の空間(サイバースペース?ということにしてみようかとも思いましたが、もっと抽象的な情報空間のようなモノを想定しています)に対して、区切りを付けるためにメディアがカタチを与えてきました。が、これからは、メディアはこの有象無象をあらゆる角度から投影するためにさまざまなチャネルが開かれたものとなり、その経験はいままでとは違ったモノになると考えることができます。

そして、その中心になるのは、我々自身が何かを発信したり受信したり転送したりといったアクションになるのではなかろうか、ということになります。
マクルーハン先生は、このような概念を、「グローバルビレッジ」ということばで表していたのかもしれません。

さらにはこのような有象無象な状態をみてみると、なにかもふもふしてみたくなります。UIとしてのタッチインタフェースは操作をするという実際上の目的を超えて、カタチの見えないモノを懸命にさわってカタチづけようとする象徴にも思えてきます。

つまり、主体的に情報にアクセスしていくこと、関わりを持っていくことによって、絶えずその状態が変化していく様というのは、まさに「メディアはマッサージである」ことになるのではないだろうか、と考えます。

さて、結局のところ、だからどうするべきなの?といった着地点も見えぬまま、マクルーハン先生のコトバは個人的に腑に落ちていくという状態。はたしてこれで知人に説明することはできるのだろうか?というますますの不安がつのります。

でもきっと、有象無象が切り取られたiPadがあればクリアになるはず!ということで個人的に購入が今決定されました。