ウランに首ったけ

原子力関連の投稿ばかりではありますが、今回もまた原子力関連。
以前、ウラン採掘についての投稿を行いましたが、ウラン鉱山についてのドキュメンタリー映画をやっていたので観に行きました。

タイトルは「イエロー・ケーキ ― クリーンなエネルギーという嘘」。
イエローケーキといってもレモンの生地のおいしいおやつではなく、ウラン鉱山から採掘され精錬されたウラン生成物のこと。黄色いフレーク状態の物質で、ウラン取引ではこの化合物の重量単位で取引されているそうです。

映画はウラン採掘に伴う鉱山、これがどのような状況におかれるのかを、ドイツ、ナミビア、オーストラリア、カナダの鉱山を取材したドキュメンタリーです。センセーショナルな内容ではなく、そして私の感想にもオチがないのですが、原子力に関する知らなかった事実を知るにつけ、また一つ目からウロコがとれた気分です。

さて、ウランは鉱物資源なので鉱山から掘り出してくるのですが、採掘に伴う残土や廃液の問題があります

残土が生じる理由としては、ウランの塊で世の中に存在している訳ではないため。鉱山といっても、鉱石中にまばらに存在しています。
http://www.tepco.co.jp/nu/knowledge/cycle/index-j.html

掘り出した鉱物から0.01%から0.25%ほどのウラン酸化物が採れるということです。ま、0.1%とすると、100kgほって100g採れるsという計算です。もちろん、このウラン酸化物を転換と呼ばれる処理をして濃縮を行い、としていくと、有用なウランの量はどんどん減っていきます。その分廃棄物もどんどんでてきます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Uranium

その過程でウランの残土が発生し、また、精錬時には硫酸に溶かしたりするそうですが、廃液が生じます。基本的には、廃液は処理はしますが鉱さいダムとよばれるため池に放流される、、、ということだそうです。ウラン採掘によって健康に悪影響を与える可能性のある環境汚染が発生します。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=04-04-01-04


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ウラン採掘によって鉱山周辺に問題が生じます。で、この鉱山を追って映画ではまずドイツからスタート。知らなかったのですが、ドイツにはウラン鉱山があり盛んに採掘がされていたそうです。時は冷戦下で、ソビエトの影響にあった東ドイツの南部にWismut鉱山があり、核兵器等の製造のためにウランが利用されたということです。

こちらは、冷戦終了後、閉山されたそうですが、環境回復のため残土を穴にもどすとかダムの廃液が地下水に溢れたりしないような処置をおこなったりといった閉山処置が現在になっても続いており、2020年完了を目指しているそうです。
そのための予算がドイツ連邦政府から拠出されているとのこと。

ちなみに、予算としては70億ユーロを計上しているそうです。日本円で7兆円。。。たいしたもんです。

http://www.wise-uranium.org/udde.html
http://www.wismut.de/de/
http://www.oecd-nea.org/ndd/reports/2011/uranium-2009-japanese.pdf


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ついでナミビア。ナミビアの鉱山は操業をRössing鉱山というところの取材。男女の雇用が守られていて、女子もがんがんはたらいています。働く場があるという意味で、経済的に豊かになり、希望を見いだすという一面もあるらしいです。
http://www.jaea.go.jp/03/senryaku/report/rep07-4.pdf


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オーストラリアの例では、ウラン鉱山が先住民の土地にあり、そのための政治工作などの歴史があったそうです。印象的なのは、洪水がきたらどうしようという話が映画中にでききたのですが、案の定、昨年2011年に洪水のため、レンジャー鉱山という鉱山が閉山されました。掘った穴にたまった雨が溢れそう、そして、その水を掻き出すすべを持っていないということがばれちゃったということだそうです。
http://www.abc.net.au/news/2012-02-01/20120201-era-profit-fall-ranger-uranium/3804916?section=business


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カナダの例では、かつてのウラン鉱山の鉱山街が描かれます。採掘の経済性の悪い鉱山が閉山になる例です。街の名はなんとウラニウムシティ。古い残された映像での街は賑やかで未来への希望があったのだけれど、閉山後は住む人も少ない街になっちゃったそうです。それでも、新たに採掘が始まる事を期待するひとも。。。
http://en.wikipedia.org/wiki/Uranium_City,_Saskatchewan

などと、ウラン鉱山の現在過去(未来)をかいま見る映画でした。個人的に印象的で考えたのは、コミュニケーションについてと建設重機。

コミュニケーションについて、調べ物をする過程で、鉱山跡措置に係る リスクコミュニケーションという資料が出てきて、そこはかとない違和感を感じました。

ウラン鉱山と聞くと、健康被害が真っ先に思い浮かびます。とはいえ、低線量の被爆なので急激な健康の悪化ということはなくて、ゆっくりと、通常の寿命や罹患のリスクに隠れてその影響がわからないのが実施。このリスクの説明って、どうやってもやっぱり難しいとおもうのです。まずは、その説明って、ちゃんとできるのだろうかという疑問。

もう一つは、穴を掘るんだからきっと土砂がでるんだろうとは想像できますが、精錬のために、廃液が大量にでるってことは今まで全然しらなかったと。これも、知らされるのかどうかわかりませんが、少なくともウラン燃料の利用者たるわれわれも知らないこと。負の側面である、廃液と環境へのリスクというものを、知っておくべきだし、知らせてほしいものだとおもいました。

なおかつ、価値観や文化の違う先住民の人たちにリスクの説明を行って合意形成を行うには、どうすしたらいいのか。難しい問題です。また、自分の住んでいるところに鉱山ができたり、あるいは、友達が鉱山で働くと言い出した場合、自分はどう振る舞うだろうかというのも、想像するになかなか難しい。

だから、これらリスクを説明して、なおかつ、鉱山開発を進めるように人を説得するっていうのは、一歩間違うと、どうしても騙しのテクニックの事になるのではないか、と考えられます。そうならないための信頼関係構築のためには、どのような施策なり、ビジョンなりを描けるのか、という課題が改めて想起されます。

出典 http://www.mining-technology.com/projects/rossingsouth-uranium/rossingsouth-uranium2.html

次に重機なのですが、鉱山開発や閉山処置では、やらたと黄色い巨大重機が映像に登場します。(写真は青いけど)CATの文字があるものや、KOMATSUの文字があるものやらが目につきます。これら重機メーカはなんの関係もないと言えばないのです。が、たとえば閉山にあたって穴を埋め戻す際にトラックを使う際、トラックを動かすために大量の化石燃料を消費する結果となります。原子力でクリーンなエネルギーが得られるならば、採掘にあたってのエネルギーもまかなえばいいのに、そうならないところに、矛盾を感じざるを得なかったり。

また、鉱山開発と重機メーカの関係は深いものがあるのかなと勘ぐっちゃうこともあります。リオティントという資源メジャーと、コマツが共同で奨学金を創設しています。これ自体は歓迎すべきことなのですが、どうして別々じゃなくて共同にする必要があったのか?と思うと、ウラン採掘で協力しているよね、といった理由がおもいつきます。
http://www.tohoku.ac.jp/japanese/2011/06/press20110607-02.html

などと思う事はあるのですが、単に原子力発電に関連するところを見ていくと、全然未来じゃネェやという泥臭い部分がぽろぽろと発見されます。好きとか嫌いとかに関わらず、知らない事がまだまだあるという実感。サプライチェンに頸城をうたなければ、原子力をもう一度冷静に考え直すこともできないのではないか、そう思います。

そんな事を考えていれば本日、イランがウラン濃縮技術を自力で開発したと報道がありました。
世界はやはり、ウランに首ったけ。

UPLINK X | 『イエロー・ケーキ ― クリーンなエネルギーという嘘』


のるかそるか

米国債デフォルトが最近気になるキーワード。

報道によると、米国の連邦債務が財政規律上制限されている上限に達しそうになっており、8月2日までにその上限を引き上げなければデフォルトに陥る可能性があるとのこと。

ええと、いろいろとよくわからないということで、全く経済をやってない、かつ、特にあらたにリサーチをするわけでもないのですが、一つ一つ噛み砕いてみる。

まず、連邦債務とはなにかというと、米国財務省が発行する公債による債務。これは、政府が発行する債券、国債で、この債券を買う人は、債券額面分のドルを払う事によって、ある期間が経過すると利子を含めて償還される、というもの。
結果として、連邦政府は、税収という収入、あるいは、通貨発行量を増やすことなく、現金としのドルを集めることができる。要は使いやすいお金を手に入れることができると。
一方、債券を買う人にとってみても、単なる現金をもっていてその価値のみで満足するのではなく、将来利子を含めてバックしてくる資産として債券をもつことができます。もちろん、現金のまま持っていることによって、インフレによる価値の目減りのリスクがあり、これは国債にしても同じ側面はありますが、利率がそれを見越したものであることと、市中に現金が溢れるよりは国債としていた方がインフレリスクを少しでも下げれる、と考える事ができます。

次に、財政規律上、制限されているのあたりです。連邦債務が追っていい債務残高は、連邦議会にいよって規制されている。つまり、政府が勝手に公債をつのってはいかん、ということがまず一つ。もう一つは、公債発行を押さえるとともに、債務上限に達しないように債務償還についても一定のイニチアシブを持つ事になるといえます。
http://m-words.jp/w/E980A3E982A6E582B5E58B99E381AEE4B88AE99990.html

次にデフォルト、について。債務不履行と呼ばれます。米国債のデフォルトというのは、つまり、国債を償還できない事であると言えます。なんで国債を発行できないから米国債がデフォルトなの?というのが素朴な疑問ですが、通常、政府が行う公共サービス等は債券ではなく、なんらかの現金支出を伴うと。そのため、ある期日に支払いが重なると、現金がありまへん、ということになる。公債償還と公共サービス支出が重なる場合、資金がない、ということになるのかなと考えます。なので、実際には、新規の国債を発行する事によって、資金を得るとともに、償還期限を迎える国債に変わるように国債を販売することになると言えます。もっとも、こうする事によって、利子分が確実に借金となりますし、公共サービスにかかる歳出が税収等を下回る場合は、これも国債を当てる事になるためやっぱり借金になります。(さらには、そのギャップを埋めるためには、通貨発行量を増やしてインフレにして見た目の借金を相対的に減らす、とうこともあり得るのかも、、、などと思ったり)

それでも、経済が回っている以上は、借金も経済循環のなかのどこかに含まれているので、問題はそれほど無いと言えます。
ところが、いったんその国債の流れが止まると、すなわち、
1)償還期限を迎えた国債が現金化できなくなる

2)国債を当てにしていた資金流動がなくなる
3)ドルの信用が下がる
ということなのかな、と考えます。つまり、1)の結果、2)の国債を当てにした資金流動がなくなるとは、資産を米国債で持つ魅力がなくなると。その結果、まず国債が売れなくなる。米国債を買うためには必要だったドルの魅力がなくなる。大量の米国債があるけれど、これが将来ドルとして償還されるかどうか不安になる。みんながそう思うと、お互いに米国債に価値を認めなくなる。格付け下がる。米国債を持つよりも別のものを持とうとするために、ドルが市中に増える、ドルが増えることで、相対的にドルの価値が下がる。ということなのかと。

そして、別の国で別のものが買えるはずである他の国の通貨が高くなる。例えば、米国債を買って利子を当てにするよりも、他の国の国債を買って利子を当てにした方がいいんじゃないかと考える。すると、ドルと他の通貨を交換し始める。みんな買うから、いままで1ドルで100円ゲットできていたのが、80円しかゲットできなくなる。ということで、今急激な円高になっているのかな、ともこれで考える事ができる。

さて、ここまでをふまえて素朴に考えると、あたりまえに、すげー借金増えるのになんでそんな事やるんだろう、ということと、日本は何か影響あんのかな、ということ。

最初の疑問は、日本も同様なので人ごとではないのですが、国が存続していくならば、別に借金増えてもいいし、そもそも通貨の発行を増やしたりして永久に先延ばしできるはずである、という信念で実施できているんだろう、と考えます。すなわち、これも大雑把にいってしまえば、すくなくとも自分の生きているうちには、破綻しないという信念と、それを信用する周りの人々、という関係とも言えます。

次に、日本への影響ですが、米国債の価値がなくなったとすると、いままで貿易で稼いできたドルがなくなっちゃう、ということになってしまいますが、まあ、そう簡単に価値ゼロにはならないとおもうので、当面は円高の影響が顕著かと。ドルの資金の逃げ先として円が買われたり、日本の国債が買われるようなことがあれば、それはそれでよしとして、他の通貨を基軸として別の地域で商売をして、円の経済圏とは独立の商業をおこなうことが加速しそうな気がします。つまり、日本における商売は、日本の円での経済圏と、日本以外の経済圏とでどうも分離しそうな心持ちです。

さらに、じゃあデザインとかモノづくりとかどうなんのとかも考えられるのですが、取り急ぎ、このあと、午前2時から米国ではこの問題で再度議論が繰り広げられるそう。のるかそるか、それが問題。


新年における戦場カメラマンさんに関する無駄思考

あけましておめでとうございます。ことしもどうぞよろしくおねがい申し上げます。

で、さて新年なにを書こうかと実は考えあぐねて、はやくも過去を振り返ってしまったのですが、昨年前半は比較的抽象的な思考でほほう、とおもったのですが、あとは中国ネタと展覧会ネタばっかだな、と。

実際のところは昨年末はひたすらアクリル板の端面をヤスリでみがいたり、電子機器を手動で数百台アップデートしたりと、比較的不毛だったので、旅立とうとおもいます(精神的な意味で)。

精神的に旅起つという事で、以前にも書いたのですが戦場カメラマンになりたかったな、という事を思い出しました。去年少しはやったし。これを掘り下げてみよう。

これだけどんなデバイスにでもカメラがくっついてしまう昨今、カメラマンさんと一般人との違いは何なのか?そして、普通のカメラマンさんと戦場カメラマンさんってなにか違うのか?という疑問がわきます。普通のカメラマンさんが戦場にいたら戦場カメラマンさんなのか?それとも。戦場カメラマンさんがデパートにいたらデパートカメラマンさんなのか?などと考えていると謎は深まるばかりなのですが、まずは当たり前に実用的考察をすると、戦場の特殊性があげられます。亡くなる可能性が高いということです。

戦場の場合、戦闘が行われているので、そこにいると危ないのはあたりまえなのですが、いちおう国際法上、非戦闘員を攻撃をしてはならん、ということになっています。普通の人は巻き込むなということです。よって、非戦闘員である戦場にいるカメラマンさんは非戦闘員ということで攻撃の対象にしてはならんはずです。

ところが、よく考えると非戦闘員という位置づけもあいまいなところがあります。例えば戦闘員でない健康な男性が今にも入隊しそうな場合、これって非戦闘員なの?どうなの?というのはまずあいまい。武器を持ってなければOKかもしれないけれど、非戦闘員でかつ狩人で鉄砲もっていた場合は。。。なぞ。カメラマンさんの場合、軍事機密を撮影した、とするならば、敵対勢力に利するおそれがあり、まずは関係ない人ではなくなります。でも戦闘員ではないので、攻撃はしてはいけないはずです。しかし、このカメラマンさんがなぜか調理用の出刃包丁を持っていたとすると戦闘員となりうるかも。。。微妙です。

また、そもそも内戦の場合、どちらかというと犯罪者集団の争いに近いはず。わかりやすくいうと暴力団の抗争で流れ弾にあたった場合、犯罪行為を行っているさなかに飛び込む方も悪い、といわれても仕方ない位置づけに。

などと考えていくと、戦場カメラマンさんというは、非常に起ち位置があいまいなまま、戦地に赴く奇特なカメラマンの方、ということになります。そしてまたいうならば、戦場になってしまった場所にいたブライダルカメラマンさんは、戦場に自ら進んで赴いた訳ではないのでそのままでは戦場カメラマンさんでは無いだろうと言えます。

では、戦場カメラマンさんの定義はおおよそできたところで、戦場カメラマンさんに新規参入するとしたら市場はあるのだろうか?ということを勝手に考えます。見渡してみて実は戦場カメラマンさんがいない戦場があります。

一つは、空中戦での戦場カメラマンさんは未だかつて聞いた事がない。そもそも、戦場に赴けないというのが当たり前な理由なのですが、戦闘機なんてあるいみ花形の分野なのに、不謹慎ですが野次馬もいないのもどうかとも思われます。機動性はおいておいて戦場に乗り付ける足としてジェット機を用意するとすれば、中古で数十億円。実際に写真におさめる事ができれば、コストとか勘案すると一枚数億円といったプレミアになったりするかも。

もひとつは、海中。当たり前ですがそのような写真は全然ない。そもそも民間で使える潜水艇ってほとんどない。加えて、ヒカリが届かない深海では、撮影もおぼつかない。でも、これも撮影できたら前人未到のはず。

最後に思いつくのは、IT関連に関わっている以上外せない、情報戦の戦場カメラマンさん。もはや、戦場があっちの世界になっちゃうのですが、日夜戦闘が起きているはず。何をどう撮影するのかすら全くわかりませんが、未だかつて無いカメラマンさんになれること間違いない。

などと新年から結構無駄な事を考える旅にでたのですが、これだけいろんな写真を撮影してそれを公開する方法が技術によって簡単に誰でも使えるようになっているにも関わらず、いまだに見た事がない画像が世の中にはあるなと妄想から考察する事ができました。

また、一方で、だからこそ戦場や僻地で写真を撮影するという事は、金銭だけではなく、莫大な意志のコストもかかっているということにも思いいたります。日頃接する視覚情報にたいして、見ている起ちいちから何を引き出すか、こういう事を考えようかとする年始の夜です。