bitとmoney の予感

ビットあたりの単価ということを、以前から考えています。

というのも、生活費すら事欠くのにも関わらず、一体自分はどれだけ通信費に出費をしているのだろうかとはたと気づいたからです。

例えば、携帯電話。月々数千円を基本使用料として支払い、さらに通話をすればその分だけ費用がかかる。例えば、インターネット。自宅にネットを引けば、固定回線費とプロバイダ費用がそれぞれ数千円。これだけで月に一万数千円の出費となります。

一ヶ月で一万円以上の出費というと、家賃と食費と図書代金という、これもまた偏った生活をしていますが、その上位に通信費が計上される訳です。

それほどの重要度を果たして持っているのか?というとよくわからないのですが、比較をすると面白いです。

通信というと、昔、明治大正の文学者等の作品を読みますと、よく手紙を書いたりもらったり読んだりという下りがあります。
このお手紙、現在は封書は普通郵便で80円で送れます。
例えば毎日誰かに手紙を書いて送ったとすると、80円x30日程度で、2400円。普通の携帯電話のプランの価格よりは、安い結果となります。
それでは、通常のやり取りで、手紙ほどの密度を持ったコミュニケーションをとっているかというと、そんなことは全然なくて、メールのやり取りなど、1日始終やり取りしたとしても、便せん一枚ほどの重みすら無いことも往々にしてあります。

一方、この記事を書いているこのblogですが、サーバをレンタルし、ドメインを取得しています。そのための出費は,月々平均しても数百円程度。ネットにつながれば記載ができますので、あちらやこちらでネットにつながれば、その費用はなし。また、このblogはwordpressというオープンソースのブログソフトを使っていますし、処理言語としてのphpやMySQLやらは無料。もちろん無料のブログを利用することも、きわめて簡単です。
この仕組みを使って、自分の考えやメモをまとめて公開できること、これができるのはある意味リーズナブル。
同じことを手紙でやろうとすれば、同じ文面を多数の人に届けなければならない。また、知らない方々に考えを表明しようとすれば、現代ならば雑誌新聞に意見広告でも出しましょうかとなり、数万円から数千万円の費用がかかります。
その意味では、現代の方が低コストで通信ができているとも言えます。

ともあれ、かくもこのように、いろいろな方法によって、人間は他者とコミュニケーションをはかろうとする生き物なのか、ということ理解でき、そして現代社会ではますます経済的な活動と結びつくことになるって来ていると考えられます。

このことを考えるならば、コミュニケーションそのものに価値があり、その価値に対してどのような時間的・金銭的コストをかけるかということ、そのことが、人間一人一人の個性や社会的立場などを反映したものとなるだろうと考えます。

それでは、この情報について、そのビットあたりの単価とはなにか、を考えるにあたって、アプローチとして3つがあると考えています。

一つは、数理的な情報量の概念。これは、シャノンの情報理論に基づいて考察することができます。情報の内容に触れず、その形式の質を取り扱う概念であると言えます。このことが、情報の形式の質と経済との関連から分析することができます。情報の質を高める仕組み、技術が生む効果を、定量的に比較し、その優劣を考察することが可能です。

次に、人間が解釈する情報の質の概念。これは以前感覚・感性・感情・直感などを併置して考えましたが、内容としての情報が、人間を如何にして変化させるか、あるいはさせないかということを考えるものです。価値というものが、普遍性を持つ価値と、属人的な価値(いわば個々人の価値観)とに分類できるとするならば、それぞれの価値が経済活動とどのように結びつくかを考察することができます。生命現象それ自体が、情報を処理するための存在するということすら仮説として位置づけたアプローチが可能だと考えます。

最後に、物理エネルギーとしての情報について。情報が形而上に存在する概念であるならば、それは全くエネルギーとは関係が無いともいえますが、実際には人間が記号操作をするにはそれなりのエネルギーを消費しますし、パソコンや携帯電話は製造と使用にエネルギーを消費しています。つまり、今日の情報は、そのビットごとに何らかのエネルギー消費(あるいは、エネルギーの形態変化)をおこした結果であるといえます。地球上で現在利用可能なエネルギーはほぼ、太陽からのエネルギーを源としています。そのエネルギーの圧縮度によって、エネルギー資源は経済的には価値が算定されています。(もちろん、投機対象としての側面もあるので、それほど単純ではありませんが)この意味では、ビットをエネルギーとリンクさせた概念として経済的評価を加えることも可能であると考えます。

さて、それでは詳細へ、あるいは、話を飛躍して飛脚と情報などというところも考えたのですが、いかんせん、もはや眠くなってきたことと、ますますややこしい話になりそうなので、これは後日がんばっていきたいと思います。ただ言えることは、マネーはビットとなるのだろうという、根拠をもたないぼんやりとしたビジョンが道しるべとなるということでした。


モノともの

モノとものについて

漢字で物と書いてしまうと、それまでなのですが、なかなかやっかいな概念です。

Wikipediaによると、哲学用語としての物、これは時間的存在者のこと。
経済的には、物質の他に、サービスなども含む経済的価値のあることをさす。
法学的には、人に対することばで、権利などの客体となるものをいう。民法上では有体物というそうです。
などなどといろいろな意味があります。

哲学用語の意味は難しくてよくわからん、というところですが、重要なのはサービスなどの無形の対象をどう呼ぶか、それで経済と法学との違いになりそうです。

では、もの、と平仮名で表記をすると、つぎの問題は、者、も、もの、と呼ぶことです。(ええい、ややこしい)

故に、個人的な立場としては、物はモノと表記するのがよいのだろうと考えます。

なんでそんなことを考えたかというと、「官僚たちの夏」というドラマをやっているので、そういえば経済産業省の前身、通商産業省のデザイン行政がどうだったっけと調べようと。
Webでは、経産省のなかにものづくり産業振興という部門があり、その中にデザイン・人間生活システム政策という小項目があります。
そのWebのパン屑リンク(なんとか>なんとか>なんとか>全体とリンクとの関係を表記する方法です)

その表記が、ものづくり、と、モノづくり、とちょっと表記の揺れがあったので調べてみたということです。
それくらい、あんまり意識されていないということでもありましょうが。

「官僚たちの夏」、については、プロジェクトX官僚版、かなー、とおもいつつ。米国との戦い方としては、保護経済か自由経済かとおいたときに、結局のところ米国は研究開発から商品化へむかう道筋の上流工程において研究開発費として膨大な資金を投入していることもあり、実質保護主義的なんではないかなー、と思っています。ドラマではその辺りの描かれ方がどうなのか興味深くあります。

経産省とデザインについては、JAPANデザイン海外販路開拓支援事業の公募がかかってます。安心・安全に配慮したものづくり(おおよそこちらの呼称が公的なようです)に対する補助があるとのこと。
この公募の見本文書、現経産省大臣は親中でらしく、なんだかその雰囲気が残っていておもしろいです。一方、産婦人科の勤務実態にたいする現大臣のコメントが問題となっていることもあったり、事情の兼ね合いが難しいところも発生しそうな予感もします。
また、状況としては、衆院選も近々ありそうです。ぶれの無い行政をお願いするばかりです。

最後にデザイン行政ですが、これは、デザイン政策ハンドブック2009によくまとまっており、たいへん勉強になります。ありがたいです。デザイン政策の必要性が1955年後頃に取りざたされていたというのは、ドラマころの時代と近接しています。

デザインの定義やデザインの分野についても、記述があり、この辺り参考になるのですが、個人的には抜けがあると思います。
まず、エンジニアリングデザインとの関係もあまり出てこなくて、また、だれもそこを触れないのか!というもやもや感があります。だからデザインなのだ、という話になるのですが、なにかと難しい。
つぎに、ネットワーク分野での記述が無いこと。単純な話ではWebデザインはビジュアルデザインになるのだろうかと思うのですが、実際にはそんな風にはできていないです。個別のデザインをプロモートするための方法としてWEBがもはや必須ですが、WEBデザインの業界団体なども現状では存在せず、また、情報通信に関しては、別の部署で行政が司られていると推察されます。デザイン振興では、おそらくもっとも重要になる分野ではないかと個人的には考えます。
そして、たとえば、海上メガロフロート、小型ロケット、組み立て式住居、石油の採掘プラントなどの重工業の構想は、おそらくこの議論の中にはあんまり入ってこないだろうなーと思います。なぜなら、それらの事案にはユーザの感性価値など想定できないから。しかし、実際にはそういうところまでデザインでは考えたりします。

翻って、そもそも、産業育成は民間企業ががんばった結果であって、行政がどうこうできる問題でもない、そして、そういう時代でもない、ということもいえるかもしれません。ドラマは美しい話となりますが、実際にはそれとは別に当事者意識を持って、日々精進しなければと思います。

デザイン関連資料