病院の地下の原発

原子力発電について考えることがあり、ひらめく。

病院でPETとか使うんだったら、いっそのこと小型の原子力発電機をそなえちゃったらどうだろうか。災害時にも自家発電の能力が維持されるし、地域の医療とエネルギーとをまかなう施設として機能する。

両者も電子行政やネットバンキングのようにネットワーク越しにやり取りが終わるのではなく、物理的な送電線や、人の往来といった、実体が伴う必要があり、生活圏から一定の距離内にないといけないもの。

問題は、所管する行政が厚労省と経産省どちらなの?ということがありますが、現在、医療機器産業も両者が入り乱れてちょっとよくわからないことになっているので、いっそのこと一緒になれ!と念じてみたり。


フレームワークのデザインについて

またHTMLやCSSやらをリーバスエンジニアリングすることになり,頭が痛い.

デザインと実装を同時にやるという意味では,エンジニアリングとデザインとが一致した作業であり,おもしろくはあり,ずっと作業できてしまう自分もいるのですが.

ただし,プロダクトデザインとWebデザインの異なる点として,プロダクトデザインはプロトタイピングを実施することが結構難しいが,一方,Webデザインの場合は,プロトタイピングによって動作を確かめることが比較的容易.

ところが,ここがくせ者で,デザインをはっきりさせておかないと,結局最初から構築をし直さなければならないことも多い.また,動作環境によってデザインや動作にばらつきがあり,悩ましい部分.

で,結局全てのモノづくりに関係しているのだろうと考えるのだけれど,どれだけ優れたメタエンジニアリングが存在するのか,ということ.

簡単な例でいけば,単位系の問題がある.今はほとんどの国でSI単位系が一般化しているけれど,これが無ければ一つの部品を作るのに,膨大な情報伝達が必要となり,ひどく労力が必要となる.よって,なんらかの規格にのっとってモノをつくるというのには合理性がある.

プログラムも同様に,どの言語を使うのか,情報を処理するという目的に合わせて,プログラミングを実施しようとするときに、足し算程度なら,ゼンマイで動くような全て機械機構によって構築することもやぶさかではないが,ちょっとした演算を行おうものならば,チューリングマシンでないと難しい.さらに複雑なことをさせようとすれば,ハードとソフトを明確に分離し,且つ,ソフト=言語系のあり方も規定されていることが望ましかったりする.フレームワークとでも言いましょうか.

ここで注目されるべきであるのは,どのフレームワークを選択するのかは,作り手に依存するし,そもそもフレームワークが成立した合理的根拠は,突き詰めていけば薄弱であると思われる.

究極的には,どのようにやるか,何を根拠にするかというのは,主義主張や思想である,ということがいえると思う,これは,I先生からよくうかがう話でもある.

その主義主張は,好きとか美しいと感じるかといった部分や,できたモノを評価してみるしか判断することができない.最終的には声の大きいやつが勝つ,という訳ではないですが,ある意味冷静にフレームワークを見極める目を養う必要があると考えた,CSSが頭を巡る今日この頃.


デザインにおける自動焦点機能

写真について考えてました。で、お題はビジュアライゼーション。ビジュアライゼーションは(プロダクト)デザインでは重要。つまり、見える化です。

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デザインにおける見える化には、いくつか目的があります。デザイン初期段階でのアイディアだしやスペック抽出のための、デザイナ自身が思考を外部化して客観視するためのイメージ。

もう一つは、デザイン事象を伝達するためのビジュアライゼーション。具体的には、実際のモノのように見せるレンダリングというのがあります。

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まあ、実際には、デザインの特徴を示せばよいので、実際のモノのように見えるっていっても、いろいろな段階があるのですが。

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で、なにを思ったかっていうと、カメラはどんどんデジタルになっているけれど、デザインのビジュアライゼーションはどうかっていうと、ちょっと違うなーということ。

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昔、写真をとるのにはそれなりの技能が必要であった。なので、職業写真家が存在した訳ですが、カメラに測光装置がついたり、自動巻き上げになったり、オートフォーカスになったりと、どんどん自動化されていきました。その結果、カメラの操作自体に習熟することなく、写真を撮影できるようになった。つまり、カメラの操作ができるからってプロとはいえなくなってきてしまった。

ただ、フィルムを使っている以上は、その現像と焼き付けは、一部の人をのぞいてお店に行ったりとプロの出番があった。(その一部の人をしばらくやっていたのですが)。それなりの職能がないと、この仕事もできない。

そこで、カメラがデジタル化したことで、このフィルム現像といった後処理についても、プロの力を借りる必要がなくなってしまった。

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プロであるという条件が、間違いなく機器を操作できるということではなく、写真そのものの価値という段階に至ったといえるでしょう。

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一方、プロダクトデザインの分野ではどうだろうか。プロダクトデザインと一言にいってもいろいろあるけれど、絵に関していうと、スケッチの方法は、今も昔もあまり変わっていない。紙にペンで線を引けばよい。逆にいうと、デザインの初期のスケッチというところに関していうと、ものすごく敷居が低い。ある意味では、だれもができることだ。

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一方レンダリングの技術について、手書きだととたんに難しくなる。フリーハンドで気味の悪くないパースをひくのは、それなりのトレーニングが必要となる。プロフェッショナルとしては、このハードルを越えるの一つ。

そして、色彩については、すごく昔は水彩やアクリル絵の具のように、結構手間のかかる画材を用いていた。それらの色の組み合わせを覚えるというのも、大きなハードル。ただし、この色にかんしては、マーカーを用いて手早く描く技法が開発されたので、今ではそれなりには時間が短くなっている。

グラフィックデザインについても、烏口やらレタリングやらの技術を覚えるのは大変。

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では、技術的進化として、デジタルが導入されているのはどの辺りかというと、まず3次元のイメージを起こすときに、CGで着色やパース絵を描けるようになった。これは、ある意味革新的。身体的な技能によらず、数理によって誰もが本物のようなレンダリングを得ることができるようになった。

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スケッチについてはどうかというと、イラストレータやらペンタブレットを用いてデジタルで線を引くことができるようになった。これは、失敗しても何度でも線が引けるという意味で、革新的といえば革新的。そして何より、いろんな色を自由に選んで着色できるようになってしまった。

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これらからは、職能としてのデザインの技能がどんどん再現性のあるデジタル環境になっていったことで、デザインをやるための敷居は下がっていると言ってもいいのだろう。

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でも、大きく違うのは、デジタルだから万人がデザインを簡単にできるようになったかというとそうではないということ。

写真のように、とりたいものをだれもがきれいに撮影するといったように、デザインもつくりたいものをだれもがきれいにつくれるようになったとはいいがたい。

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もちろん、写真のように撮影したい!というような、つくりたい!という人と比べて圧倒的に少ないってことは当然いえます。だけれども、写真だったらあり得るような、なんかきれいにできちゃいました、っていうデザインはなぜかあり得ないことが多い。

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個人的には、万人のためのデザイン方法っていうのがあったらいいなー、と思う。そうすれば、美しいもので世界があふれるのだろう。

そう考えると、技術によるデザイン支援のよちは、よっぽどたくさん残っていると感じる。

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デザインにおけるオートフォーカス的機能なんてのがあったら、どんなものになるのだろうか?