後退戦とデザイン

Idea sketch of radiation counter

東北地方太平洋沖地震、途方も無い被害と避難生活、さらに原子力発電所事故とも想像をしていなかった事態。被災者の方々の生活を報道で知る旅に、悲しかったり寂しかったりと。
ことばでいっても、なんにもならないですが、ゆるりゆるりと、時とともにもとにもどっていけるように過ごせればと。わたしにとっては、少なくともその気持ちは一生のものだと覚悟です。

とはいえ、寂しいのは、原発の事故。正直、土地が汚染される、ということを考えると本当に寂しくて寂しくてたまりません。私自身、福井県という地方の山間でそたちましたが、身近な裏山が工事で切り崩されたときは、なんとも言えない寂しさを感じました。ましてや、今回の事故は、本質的に住民の方々にとって、無論引き換えるための何の利得もなく、ましてやもどる事を阻む障害でしかないと思うと、寂しい。

さらにこの事態に個人的に逡巡するのは、かつて課題で原子力発電器(発電所、ではなく、のつもりだったのですが発電所って書いちゃってるな。。。)のデザインに取り組んだことがあり、この事態を想像できていたかというと全くできていなかったという反省です。技術や理論といった側面、エネルギー政策という側面は考えても、想定しうる事故については無意識に思考をやめていたのではないか。

さらに、震災後に普通の報道では触れないような事柄、例えば昨年の福井県もんじゅ事故、原子力利権についてや原発労働について知るようになると、果たしてなにがいいのや悪いのやら、まだ答えを出せずにいます。だから書けない。

少なくとも、仮に自分の設計やデザインで、人が死んでいる、ということに直面するならば、それは堪え難い。

そのためには、後退戦の技術が必要ではなかったのか、というのが今考えていることです。

例えば、現在原子炉で事故対応している方々がどのような装備なのかは判然としないのですが、報道からうかがう限りでは怒りを覚えるようなモノのような気がしてならないです。だから書きます。

例えばガイガーカウンターや線量計。ガイガーカウンターは放射線源に機器を当てる形態をしていますが、あんなもの持ちながら作業なんてできませんし、何十年も全然変わってないように見えます。線量計も、計測部とカウンタが一体で、視界不良のなかでの視認性低そうだし規定値が来たら警告音がなるのも危機感あおられていい仕事できないんじゃないかとおもいます。

それに防護服。原発内部で動くにあたっては動作半径や開口部の大きさなどいろいろと制約があると思いますが、世界で最高最上のものがどんなものなのか我々は知りません。だったら少なくとも、いくらお金がかかってもいいから現状で考えられる極限環境の防護を実現してくれるような宇宙服を持ってくるとかそれぐらいのことはやってほしいです。

idea sketch of special suit

などと、例えばガイガーカウンタについては手の甲あたりに測定装置があって対象にむけるとメガネみたいのに表示したらどうだろう、でも放射線源に手を近づけるくらいなら、むしろ手から測定装置が伸びるとかの方がいいな、とか、宇宙服でも圧力差はいいから、そのかわり鉛の装甲やウォータージャケットによる放射線防護とかの機能が必要だな、などとむちゃくちゃでもスケッチをしながら考えるわけです。

原子力発電という人工物を扱ってしまった以上、今すぐ、私の仕事とはかけ離れていたとしても、デザインという職能において、考える。その是非はともかく、そこまでの視野と関心をもち続けたいと思いながら新年度を迎えます。


スプートニクの子供

東京都現代美術館へ。乗り換えなしで最寄り駅まで行けるのでしばし訪れます。

お目当ては、スクニク子さんの展示。Make:Japanでみて衝撃を受けたので。トランスフォーメーション展という企画の一つで作品を展示してました。

正直、破壊力ありました。女性のキモチはあんまりわかりませんが、タイヘンそう、、、というのはひしひしと。それでモノをつくってしまうというパワーが、草食化している昨今、火をつけられるしだいです。

なぜつくりたくなるのか?これは不思議でしょうがないのですが、どちらかというと衝動。合理ではなく、不条理が駆動力になる事がしばし。みんなそんな不条理でできていたら楽しいのに、というのは個人的な信念として隠し持ってます。

さて、他にも展示ありまして、おもしろかったのは単にブロックを積む、という作品。これは、オランダアート&デザインの新言語、という企画の一つ。みんなで参加できるので、自分のブロックもそっとおいてみました。

Tsumiki
Tsumiki

すでにたくさんのブロックがおいてあり、もはや一つの生態系が出来上がりつつあり、興味深い。特に、なぜかタワーを建てたくなる心理というには何なんだろうかとおもいつつ、自分もタワーの一員に。もちろん、この後に続く人も現れて自分のブロックは埋もれていくのだとおもう寂しさもありつつ、妙な清々しさ。死屍累々、おのれの屍を超えてゆけ、という感覚でしょうか。ちなみに近くから東京スカイツリー、見えます。

さらに、泣きそうになる作品としては、山川冬樹さんの作品。常設展示にあります。父上が山川千秋さんというフジテレビのアナウンサーだったそうです。で、その生前の声の録音を作品にしているのですが、ニュース原稿を読む声から日常生活での肉声を時系列にそって聞くというもの。予備知識なしにみた(というか聴いた)のですが、1970年代から1980年代年代の特有のテレビ的なにぎやかさと、自分が死んでいった後の世界への無力さ歯痒さとう背離を、声、というメディアによって感じ入るわけです。

その声は、記録であって、何ら物語るわけではないのですが、作者の作家性による編集操作によって、対峙するわたしたちに届けられたのだと考えることもできるし、一方で生前に録音をしていた、ということそのものが作家性であったともいえるし、ここにも意図を超えた不条理が感情の移動にかかわっているのかなと感じました。

などと、お腹いっぱいになる展示たちばかり。その上で脈絡無くおもいつくのは、少なくともわたしについてはスプートニクの子供みたいなものかということ。(似たようなタイトルの本があるらしいのですが、読んでないのであしからず)

スプートニクというのは、ソビエト連邦、現在のロシア(もうソ連といってもわからない世代が増えてきつつあるのです!)が打ち上げた最初の人工衛星。この人工衛星はなんのことはない、たんなる電波をだしていたのですが、その電波受信によって発する音によって、ある人々は歓喜したし、ある人々は恐れおののいたそうです。

とはいえ、なんでロケットを打ち上げて人工衛星を実現したかったのかについては、合理的説明はいくらでもできるのですが、結局やってみたい、という駆動力が核心だろうと勝手に考えてます。それを実現するためには、たくさんの人がかかわったのですが、それにしてもブロックを積むように、高みにのぼる一つの要素になりたいという素朴な感情からのきもします。

そういう結果を、むしろ音によって感じることというのは、なんとも遠回りのようでもあり、永遠のようでもあり。技術やデザインが向う先きはそうあったらいいなとおもい技術を指向するのがどうやら自分のようであり、またその文脈の子供だとも勝手に思いつく次第です。

そして響くにはスプートニクという不条理な語感。


中国のデザインとネットと模型店

しばし中国に。今回は中関村という、北京の電脳街とよばれるところへ仕事のようなものでしばし行って参りました。タイミング悪く、反日デモということも報道されていましたが、北京では至ってへ平穏。親切な人は親切だし、愛想悪い人は悪い。そういうもんです。

さて、今回も結局のところは中国におけるデザインについていろいろと頭を悩ませたのでいくつかのトピックと考察を。

1)立体
まずは、プロダクト関連について。
デザイン制作をするための資材入手、具体的にはスプレー塗料入手で困りまして、いろいろと探しまわりました。日本だったら、東急ハンズとか大型ホームセンター、100円均一ショップなどでいろいろと手に入りますが少なくともぶらぶらしているだけではそういったお店が見つからない。で、スプレー塗料はある事にはあるのですが、下塗り用のプライマーがない。

model shop
model shop in China

電脳街だからきっとなんかあると思ってググってみたところ、見つかりました。新?模型というお店。こちらは飛行機や戦車などのスケールモデルが専門のショップで、なんとMr.hobbyやTAMIYAのスプレー塗料がそろってます!北京でプラモつくろうとはなかなか思わないですが、必要があればぜひ。

ちなみに電脳街の電気店、巨大なことに驚きますが、基本的には個人商店のあつまり。同じ商品がいろんな店先で売られているので、どうかっていいのかは全くカオスです。また、奥の方を探索すると、人の手で古い基盤から1/4ピッチのチップの半田を溶かして外してる人も。。。すごい。

2)ネット
ネット事情について
それなりにwifiが拾えますし、空港でもOK。しかしながら、やっぱりしばしば切断されます。Googleで検索すると、中国国内だと基本的には中国のgoogleで検索がかかります。で、twitterやustreamはインデックスには表示されますが、接続はできません。
なので、中国内でなにか検索するなら中国内のサイトで検索するのがよいのかも。

また、そういう事情から、Facebook等も使えないため、中国国内でのSNSが発達しています。いろいろあるらしいのですが、例えば、Facebookとそっくりサービスで人人(renren.com)というのがあります。登録したものの、基本全部簡体中国語なので、意味はふんわりしかわかってません。。。昨今話題になっているSNSアプリも豊富にあり、すごいビジネスになっている模様。三国殺というアプリがはやっているらしいです。
それに、スマフォ対応で物議をかもすメッセンジャーではSkypeがあります。これは中国でも使えるのですが、QQというほうがメジャーだそうですよ。

そのほか、中国国外にいるとあんまり使う機会がないとはいえ、遮断されているからこそ独自の発展を遂げている中国は注目です。ディープです。

3)グラフィックデザイン
こちらも悩ましい、中国的なグラフィックデザインです。写真やレイアウトはいいとして、やっぱり問題になるのは、文字。黒体や宋体についてはわかるのですが、その他のフォントについてはどうしたのものかと。で、次に見つけたのが??体(漢字が出ない。。。)という書体。なんか中国的な気がします。よかった。

Chinese typography
Chinese typography book

他にも勉強しようと書店に行ってみたのですが、ここでも驚きです。以前みたときにはあんまりないなと思っていたのですがさにあらず、中国語のデザイン本やコンピュータ関連書籍が山のようにあります。しかも、グラフィックデザイン関連の書籍に関しては、教本としての大学などの出版会が出している本がたくさんあります。思わず数冊かいこんで研究中です。(読めないのですが)。

そんななかでも面白いのは、漢字で書かれたタイポグラフィの事例として、かなりの数の日本の作品が乗っているのです。進め!電波少年とかのってて、なんと懐かしい!と思ってみたり。
さらに、インタフェースデザインの例としてGirls Genelationのwebサイトがのってたりと、なかなか楽しげです。

4)デザイン教育
最後にデザイン教育について。
少しデザイン系の学生の方と絡む機会があったのですが、その優秀さに驚愕しました。英語しゃべれるのは当然として、作品の完成度がすごくたかくて、こりゃいかん!と思ったしだいです。
大学は清?大学というのは中国で一番にランキングされる大学だとwikiにかいてあり、東大とか京大とかそういう大学だそうです。構内にも少し侵入しましたが、北京市内に広大なキャンパスがあり、よい教育環境です。大学組織は面白くて、日本なら学科レベルの機械工学とか建築とかが大学組織直下として一つになっています。

その大学内に、美術系のアカデミーがある訳です。欧米の大学では総合大学では美術系の研究科がありますが、日本の場合はもっぱら美術大学として独立しています。たとえ美術系があったとしても、文学部の中に組み込まれたりしていて、全然その価値がわかられていないようです。

ちなみに、この大学の名前がついた清?大学出版社というところの本も入手しました。イラストレータのテクニック本で、日本では書籍になかったり、大学の名前がついたような本では絶対扱わないアプリケーションのハウツーをどうどうと記載しています。

こういったテクニックを大学教育で教えているのかと思うと同時に、最高峰の大学で経験することでの人脈や知識というものをふまえると、デザインの国際的競争力において日本の立ち位置は厳しいなと感じざるをえなかったりします。

ただし、一つあげるとすると、実務的なデザインは世界の工場としてますます存在感をましていくことは自然な流れと考えますが、かたや社会的な観点からのデザインが今後どのように展開していくかに今後注目するべきかと考えます。
これは個人的には、中国人の国際的建築家が出現したときに変化が起こるのではないかとかんがえています。例えば北京五輪では欧米建築家がフューチャされていましたが、一方東京五輪の際には日本人建築家にデザイナーが最前線で活躍していました。こういったことが、今後中国で起きるか否か。
逆に、どこまで日本などのデザイナーが先きにいけるかというとこういった分野かもしれないと考えます。

などと、結果的にはまだまだ修行が足りんなーと思った次第の中国レポートでした。