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感覚と感性と感情について

感覚はsense、感情はemotion、では感性は英語でなんと言うかというと、kanseiとなり、これは日本あるいは、東洋的な概念なのかもしれません。実際には、このあたりの訳出は、ことばを使う分野によって異なっていて、選択が難しいですね。

感覚に関連して、知覚ということばがあります。これは、英語だとすると、perceptionといった感じでしょうか?

心理学用語としては、感覚は単純な感性情報を指し知覚は複雑な感性情報です、と書かれています。さあ、こまった、感性が登場してきました。

私自身の考え方としては、感覚→感性→感情というプロセスを経ると考えています。

感覚は、生物が物理的に受ける刺激、すなわち受動的な方向だと考えることができます。暑かったり寒かったりは、皮膚が正常であればその刺激を遮断することができません。よって、これが感覚。

では、感性は何かと考えると、得られた感覚を、個々人の受容するフィルタによって選択された刺激であると考えることができます。
例えば、色彩については、民族や文化によって異なっています。日本人は虹の色を七色と答えることが多いですが、6色や5色、あるいは2色という民族もいたりします。この違いは、実際には、緯度の違いによって自然光の色温度が異なったり、目の色の違いなどが影響するといった、客観的に指摘できる条件の違いと、共通感覚論のように、社会成員によって意識かにインプリメントされ形成された合意に基づく識別であったりするかと思います。
このように、感性というのは、客観性と主観性とが変換されるプロセスで生じる刺激の変換子ととらえることができます。

そして、その感性に基づいて、主体としての刺激受容者にどのような脳内現象が引き起こされたのかという結果が感情であると考えます。ただし、感情というのは難しくて、嬉しいけど悲しかったり、怒りを感じるが愉快、みたいに、感情のコードが輻輳することがままあります。そして、先ほど述べましたが、あくまで結果として得られるのが感情であるならば、なぜその感情が得られたのか、ほんとのところは誰もよくわからないと言えます。
もちろん、喜怒哀楽ということばがあるように、ある程度区分できるし、こうしたら楽しいなーとか、これは嫌だ、という他者の感情を推測したり想像したりすることはできます。その合理的根拠は、じつはあまりなかったりするのが実際ではないのではないでしょうか。

無理矢理これを式で書くと、感覚をs、感性をk、感情をeとすると、
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当然、5感とか感覚部位とか、個々人に備わる感性とかの違いを反映しつつ、感情はこっちの方向にいってからこうなります、という説明ができたらいいな、と考えています。願わくば、こんな感じでぐるぐるするような絵にしたいものです。
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では、デザインにおいて、これらのことがどう関係するのかというと、デザインする対象については、感覚に適合するモノゴトをつくりだし、ユーザの感情が動きだすことが素敵な結果です。これを目指したいものです。
そのためには、感覚と感情の間に位置づく感性の器を大きくすること、これがデザイナーに求められるのではないかと考えます。いろんな感覚を受けて感情を動かすのが大事だったりするのでしょう。

そーするってーとオチは、愛だよ、愛、こうなります。
ただやっぱり古いので、はやりとしては、夜は短し歩けよ乙女でもいいかもしれません。


媒介者・人間コンパイラ・エージェント

インターネット上での情報生成について。

インターネット上の情報は、どのように生成されるのか?
この時に、人力であるのか、自動であるのかに特徴があると考えます。

人力について。例えば、このブログ、これは私がキーボードに向かってかたかたとキー入力をしていきますと、文字がスクリーンに現れて保存されてゆきます。
つまり、私がコンピュータに向かって何らかの動作を加えない限りは、生成され得ない情報であるといえます。

一方、自動の情報生成について。
まずは、ネットワーク上の信号のやり取りの交通整理は、ネットワークの決まり事をコンピュータが識別してかってにやってくれています。よって手っ取り早く自動に生成される情報として、このネットワークのトラフィックの状況があると考えることができます。
また、防犯カメラの映像などを記録するとなれば、これはずっと録画するならば自ずと情報がずっと生成されていることになります。

以上のように、大雑把には人力なのか自動なのかに区分されて、ネットワーク上の情報は日々蓄積されていると言えるでしょう。

ただ、当然のことながら、何らかの意図に基づかない情報には、あんまり意味がない。よって、情報の抽象度をあげていく、すなわち、情報の意味を要約することで、使い道のある情報として存在し得るようになります。
ここが、今のネットワークによる情報共有の大きな障壁となっていると考えます。

すなわち、意味のある情報がネットワーク上に流通するには、まずは一次情報としてネットワーク上に生成されなければならない。そこで、ブログサービスや写真や動画の共有サービス、さらには、つぶやきまでもがTwitterというサービスでネットワークによる情報共有のためのツールとして登
場しました。でもやっぱり、その情報をネットワークにあげようとする、人間の意図がない限りは、共有され得ないことは否めでしょう。

つまり、今のネットワーク環境において、実世界からネットワーク世界へ情報を橋渡ししている人間が、この世の中には確実にいる、ということがいえます。

実社会において、ネットにどれだけ依存して生活しているのか、という点については個々人にばらつきはあるとおもいますが、ネットになかったことは、世の中でもなかったことになる社会になりつつあるのではないか、という感覚を最近は特にもちます。
よって、人力に依存した情報生成によってネットワークの意味ある情報が付加されていくならば、その付加する人には正確な情報を意図を持たずに機械のように生成していくことが今の技術水準では求められており、それがネット産業を支える基本的労働力となっているとおもいます。
また一方で、明確な意図に基づいて情報を取捨選択し、発信していくというのも、もう一つの方策として当然ながら重要となるとおもいます。

以上のようなことをなぜ考えたかというと、ただただ机にかじりついて、ネットに情報をあげようとしている自分を客観的に見たときに、実社会からネットワーク空間へと情報を変換する”媒介者”としての自己の存在を見いだしたからです。そしてその情報は機械的であり(すなわちだれでもできるようなこと)、人間コンパイラとしてHTMLに記述しているのかと思うと、なんだか悲しいじゃないか、と思ったのです。

そのあたりの、今は人間が媒介しなければならないような情報変換を、どうにか自動化できないだろうか。
その願望は、いわばエージェントとしてのロボットとして結実するのではないかとおもいます。

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形式と内容とか

エレメントとステップを考えるにあたって、形式と内容を振り返る。

形式と内容である、といつも考える訳ですが、実際どういうことか?をちゃんと考えてなかったので、考えてみる。

何かもやもやと考えるからこそ、日々の生活が遅れる訳です。

例えば、何かをおもいついた、伝達せねばとおもい、絵を書いてみる。
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でも、えーっと、何考えてるか全くわからねえ、とこうなります。これは内容が先走って、形式が欠けている、ということになります。

では、何らかの形式を与えようとすると、例えば、文字という形式があげられます。
では文字にして表してみよう、とするとこうなります。
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えーっと、何か書いてあるらしいけれど、文脈が不明、まだ形式がととのっていないようです。

そこで、見出しとボディとフッターという形式を導入してみる。
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すると、ようやく伝達したい内容が構造化されているよう見え、形式が整ってきたように見える。レイアウトも何かのルールがありそうです。

で、やっと内容に目が向く訳ですが、全然たいしたことはない訳です。ただし、同じ位置におなじクラスの内容が書かれていれば、何をどう伝達したいのか、という思考の節約につながるだろうと思います。

つまりは、物事を伝達しようとするならば、他者との間で共有できるなんらかの「形式」にのっとっていなければいかんともしがたい。
それが例えば、言語であったりマナーであったり、身振りであったりする訳です。
もちろん、文化背景によってそれは異なったりするのですが、形式が整う、ということの意味は大きいように考えられます。

一方、内容はどうなのか?というと、形式に合わせる、内容がかわってきたり、そもそもいいたかったこととは別のことにつながるかもしれません。それはそれで、伝達するという目的に対しては合理的である。心情的には、ほんとはこんなことを伝えたいんじゃないのに!というシチュエーションもあるかと思いますが、そこは人間同士のコミュニケーションの「機微」というものでしょうか。

デザインにおいては、形式と内容、その双方がそろうことによって、一つの完成をみると思います。その上で、何を機微として残しておくのか?という部分が、難しい部分。