心地よいキャンセル

しばらくぶりの記事です.昨今,オンラインでいろいろな予約をして,それからいろいろキャンセルをする事態に.

さて,オンラインでのモノゴトは,クリックで何でも決まっていきます.
そして,当たり前ですが,近年ではその傾向はますます強くなっています.

例えば,One-clickで買い物ができちゃうAmazonのシステムは,それ自体が特許性があるということで有名.その後いろいろと権利の範囲が変化しましたが,そいいうこともあるぞと.

商売上の入り口はネットによってどんどん敷居が下がっており,購買者の意思決定を促すことは,その指先の動作をどのように心地よく誘導するのかにかかってきています.そのためには,おもてなしの心が大事だな,と思います.

しかしながら,簡単に契約ができるようになった一方で,それをキャンセルする仕組みは,全然整備されていなかったり,心地良くなかったりします.

まあ,普通はキャンセルはできない,というのが当たり前ではありますが,顧客とおつきあいする以上は,継続的な関係を築くために要望に応えるという事態はソリューションの中では当然発生することです.

今回,このことを考えるきっかけとなったのは,飛行機のキャンセルのやり取りをしたとき.

チケットを海外の会社のサイトで予約をしたのですが,それをキャンセルする方法がいまいちわからない.サイト自体は日本語で表記されているので,電話でも大丈夫かなと思い,電話をかけると,残念ながら英語.それならそうと書いておいてほしい.

しかも,予約番号やらを伝えなくちゃいけなくて,書類を引っ張りだしたりで大変めんどくさい.予約するのに比べて,キャンセルのハードルはものすごく高いです.

商売上,おいそれとキャンセルされたら困るのは当たり前で,当然ハードルが高いのも十分理解できます.むしろめんどくさい方がキャンセルそのものを諦められる可能性が高くなります.しかしながら,プロダクトを売ることと,商売を続けることはまた別の話ではないかなー,とも考えます.

そうすると,ネットという商取引だからこそ,その取引のプロセスとパタンが顧客によくわかるデザインが必要だと考えます.そのためには,キャンセルや取り消しといった,本当は無い方がいい事態に対しても,補完するサービスが今後キーと成りそうな気がします.
おそらく,キャンセルするのは双方心苦しいものなので,あ,キャンセルぜんぜんOKすよ!,ぐらいのノリの仕組みがあれば,そのことで逆に入り口も広がるように思います.

なーんてことを考えつつ,果たしてフライトはちゃんとキャンセルされているのか不安でしかたがない...


モノともの

モノとものについて

漢字で物と書いてしまうと、それまでなのですが、なかなかやっかいな概念です。

Wikipediaによると、哲学用語としての物、これは時間的存在者のこと。
経済的には、物質の他に、サービスなども含む経済的価値のあることをさす。
法学的には、人に対することばで、権利などの客体となるものをいう。民法上では有体物というそうです。
などなどといろいろな意味があります。

哲学用語の意味は難しくてよくわからん、というところですが、重要なのはサービスなどの無形の対象をどう呼ぶか、それで経済と法学との違いになりそうです。

では、もの、と平仮名で表記をすると、つぎの問題は、者、も、もの、と呼ぶことです。(ええい、ややこしい)

故に、個人的な立場としては、物はモノと表記するのがよいのだろうと考えます。

なんでそんなことを考えたかというと、「官僚たちの夏」というドラマをやっているので、そういえば経済産業省の前身、通商産業省のデザイン行政がどうだったっけと調べようと。
Webでは、経産省のなかにものづくり産業振興という部門があり、その中にデザイン・人間生活システム政策という小項目があります。
そのWebのパン屑リンク(なんとか>なんとか>なんとか>全体とリンクとの関係を表記する方法です)

その表記が、ものづくり、と、モノづくり、とちょっと表記の揺れがあったので調べてみたということです。
それくらい、あんまり意識されていないということでもありましょうが。

「官僚たちの夏」、については、プロジェクトX官僚版、かなー、とおもいつつ。米国との戦い方としては、保護経済か自由経済かとおいたときに、結局のところ米国は研究開発から商品化へむかう道筋の上流工程において研究開発費として膨大な資金を投入していることもあり、実質保護主義的なんではないかなー、と思っています。ドラマではその辺りの描かれ方がどうなのか興味深くあります。

経産省とデザインについては、JAPANデザイン海外販路開拓支援事業の公募がかかってます。安心・安全に配慮したものづくり(おおよそこちらの呼称が公的なようです)に対する補助があるとのこと。
この公募の見本文書、現経産省大臣は親中でらしく、なんだかその雰囲気が残っていておもしろいです。一方、産婦人科の勤務実態にたいする現大臣のコメントが問題となっていることもあったり、事情の兼ね合いが難しいところも発生しそうな予感もします。
また、状況としては、衆院選も近々ありそうです。ぶれの無い行政をお願いするばかりです。

最後にデザイン行政ですが、これは、デザイン政策ハンドブック2009によくまとまっており、たいへん勉強になります。ありがたいです。デザイン政策の必要性が1955年後頃に取りざたされていたというのは、ドラマころの時代と近接しています。

デザインの定義やデザインの分野についても、記述があり、この辺り参考になるのですが、個人的には抜けがあると思います。
まず、エンジニアリングデザインとの関係もあまり出てこなくて、また、だれもそこを触れないのか!というもやもや感があります。だからデザインなのだ、という話になるのですが、なにかと難しい。
つぎに、ネットワーク分野での記述が無いこと。単純な話ではWebデザインはビジュアルデザインになるのだろうかと思うのですが、実際にはそんな風にはできていないです。個別のデザインをプロモートするための方法としてWEBがもはや必須ですが、WEBデザインの業界団体なども現状では存在せず、また、情報通信に関しては、別の部署で行政が司られていると推察されます。デザイン振興では、おそらくもっとも重要になる分野ではないかと個人的には考えます。
そして、たとえば、海上メガロフロート、小型ロケット、組み立て式住居、石油の採掘プラントなどの重工業の構想は、おそらくこの議論の中にはあんまり入ってこないだろうなーと思います。なぜなら、それらの事案にはユーザの感性価値など想定できないから。しかし、実際にはそういうところまでデザインでは考えたりします。

翻って、そもそも、産業育成は民間企業ががんばった結果であって、行政がどうこうできる問題でもない、そして、そういう時代でもない、ということもいえるかもしれません。ドラマは美しい話となりますが、実際にはそれとは別に当事者意識を持って、日々精進しなければと思います。

デザイン関連資料


パターンとコード

パターンとコードについて.
よく使う言葉のようで,ちょっと考えていた.パターンは,「その話はいつものパターンだねー」というように,以前に出現した物事の繰り返しという意味かと考えます.

コードは,よく考えると,chord,code,cordの3つのコトバが当てはまります.
chordは音楽の和音などの意味,
codeは法律とか記号とかの意味.
cordはひもとか電線とかの意味.

特に,興味があるのは,codeとしてのコードです.

というのは,パターンはデザイン上,グラフィック表現として普通にあり得るのですが,これは,通常「地」として認識されます.すなわち,認知される際に,対象として意識されることはない構成要素となります.

ところが,パターンに生じたリズムに狂いが生じたり,乱れ,例外が生じると,そのパターン上に「図」としてのコードが出現します.これは,認知される対象としての造形物です.

もちろん,コードがそれ自体図として存在する場合は,意図して認知しなければコードとしては機能しません.バーコードなどは,もはやその図象自体が図であるので,全体の中の一要素となります.

どこまでやったら,図として認知できるか,あるいは,パターンのままなのか,この辺りが微妙で面白い.
例えば,下記の図形は,どこかが破綻してるんですがパッと見ると,どこが間違っているか分かりにくい.でも見つけ出すと,あからさまだったりします.

tairu

音楽なんかも同様で,同じコード(ここではchordですね)の繰り返しがパターンとなったとき,それは地として聞こえてきますが,時にそのパターンが半音高くなったり低くなったら,それは図として聞こえてきます.

こういう,あれ違う,っていう感覚を持つことが感性なのかもなー,などと思う今日この頃.