幾何的な生態系

News app capture image
ニュースアプリ

iPadを入手し、使用開始から56時間ほど経過したでしょうか。このうち、さわっていたあるいは観ていた時間はまだ10時間ほどだろうとおもいます。

個人的に気になっているのは、各社のニュースアプリ。BBCは起動画面がカッコウイイ。APはインタラクションがすごい。なかでも、France24のアプリは、新聞とも、テレビとも、雑誌ともつかないつくり。操作しなければならない、というスタンスと、操作をしなくてもいい、というつくりがいいあんばいなのであろうと思います。

操作しなくてはならない、という切迫感よりも、気が向いたときにいじればいい、という緩いインタラクションが、例えばtwitterやらと似ているように思います。

人間が楽できるためにプロダクトが存在していると考えるならば、プロセッサの入っている機器はすべて自律的な生態系をつくってもらえるのが望ましい。入力と出力という関数的な捉え方ではなく、機器の振る舞いを人間がディスターブする、あくまでも、幾何的な存在としてiPadを使えるのではなかろうかと考えています。

さて、それはそれで、入力しないと出力できないという、生命の理にしたがって、いろいろな入力を求めてはぶらぶらする訳です。今回はICC(Intercommunication Center)へ。

ICCはNTT東日本が運営しているメディアートなどの作品を展示したり、イベントを開いたりしている場です。
先ほど、今年のテーマ展示が開始されたので、初めて訪れる事に。衝撃の作品はクワクボリョウタさんの《10番目の感傷(点・線・面)》

暗い部屋の中に電球のついた鉄道模型が走ってるという、つくりとしては非常にシンプルなもの。その結果、壁面に影ができるというアナログな表現。なのですが、これは面白い!影が伸びたち縮んだり、そして突然の闇と突然の青空(的な表現)に出くわします。ハコに入らないと感じることはできませんが、すごく心地よい。

なにがいいのか?というと、このプロセスの明快と常に移ろって生成されるイメージ。これらのロジックに文字通り包み込まされるというではないかと勝手に考えています。
翻って、日々の生活におけるシステムは、ほぼその仕組みを100%理解する事が難しくなっています。仕組みを利用して目的は達するけれど、もやもやとした不可解感は常に身体にこびりついているはずです。
自然現象であれば、それはそういうもんだと受けいれることができますが、人工物であれば人知の範囲であるはずなのに、そうもいかないです。

その意味では、今回の展示は、わずかな知的資源でもって存分に理解し共感し得るという点において、都市の中の一角で展示されている価値を個人的には見いだしうる訳です。
などといってもわかりにくいので、ぜひお時間あったら行ってみてください。太っ腹で入場無料です。

補足ですが、展示にあたって出展作家さんの公演もあったりで、外国からの作家さんの話を聞いたりもしました。突然プロモツールを配布するなど、ビジネスマインドも重要だよな、と思いつつ手に取ったポストカードは英語と中国語表記でした。日本なのに!
現代アートも、ブレードランナーの世界のなかで育っていくのかもしれません。。。


メッセージとマッサージ

遅ればせながら、iPadをさわらせていただきました。ありがたい話です。

iPad
iPad

所感としては、一つ、ディスプレイがきれい、一つ、片手で持つのは大変、一つ、実際使うとなると傷だらけは覚悟、といったところです。生活の中では、積まれた本の上に置かれることが必至じゃないかと勝手に合点がいっています。

さて、このこの数ヶ月、インターネットのサービスやコンテンツが、実際にぐっと自分の生活を包み込んできたような心持ちでいます。これは、個人的な感覚なのか、それとも本質的な変化であるのか、奇妙に思っていました。

個人的に感じる、iPadの可能性やネットの変化、これがどれくらいのインパクトを今後の社会にもたらすのか。例えば家族や知人は、そういう方面は全く疎いので、説明してる自分が変なのかも?などと若干不安になることもしばしば。じゃ、どうするかということで、直感がささやいたマクルーハン先生をひもといてみました。直感なので、適当なことも出てきますので、その辺りはひとつ。。。

マクルーハン先生というのは、「メディアはメッセージである」ということばが有名です。このことばは何を意味しているかというと、情報伝達において、その意味する情報の前に、その情報が伝達されうる媒体=メディアそのものに、重要な意味があるという主張です。(という雰囲気がwikipediaにかいてあります。べんりですね!)

さて、メディアというコトバについて、ほんの数年前までは、電話に新聞や雑誌、テレビやラジオ、最後にwebブラウジングという、メディアに最適化されてきたモノと情報が密接に絡み合い、そのプロダクトを使うことによって、だれもが違うメディアであると識別できうる存在でした。

もちろん、それらの成り立ちや得手不得手、社会的位置づけはまちまちで、それゆえに「メディアはメッセージである」ということばも比較的実感をもって理解することができました。

ただし、今取り上げようとしているメディアはそれとはことなります。取り上げようとするのは、twitterとよばれるマイクロブログ、ustreamというネットの映像配信プラットフォーム、そして、foursquareとよばれるジオタギングをメインとしたプラットフォームです。これらをご存知のものと仮定して、、、

これらにみられる共通点は、インターネットが使えればどこでも使えること、コンテンツは利用ユーザ自身であること、プライベートメディアとマスメディアが曖昧、などいったといったことがあげられます。そして、なんらかの定型的な区切り方ができないコンテンツやメディアであるといえます。

プロダクトデザインの観点から、さらにこれらを統合するならば、人間とメディアとの最後の境界1mmになにがあるかってことかと思います。その意味において、出入り口となるスマートフォンにスレートなどなどは、新しい何かのインタフェースとして、メディウムとして本来は形態を持たないディスプレイの一断面を切り取ったモノたちだといえます。イメージとしてはこんな絵になります。

cut out
こんなイメージ

従来はこれらの不定形な有象無象の空間(サイバースペース?ということにしてみようかとも思いましたが、もっと抽象的な情報空間のようなモノを想定しています)に対して、区切りを付けるためにメディアがカタチを与えてきました。が、これからは、メディアはこの有象無象をあらゆる角度から投影するためにさまざまなチャネルが開かれたものとなり、その経験はいままでとは違ったモノになると考えることができます。

そして、その中心になるのは、我々自身が何かを発信したり受信したり転送したりといったアクションになるのではなかろうか、ということになります。
マクルーハン先生は、このような概念を、「グローバルビレッジ」ということばで表していたのかもしれません。

さらにはこのような有象無象な状態をみてみると、なにかもふもふしてみたくなります。UIとしてのタッチインタフェースは操作をするという実際上の目的を超えて、カタチの見えないモノを懸命にさわってカタチづけようとする象徴にも思えてきます。

つまり、主体的に情報にアクセスしていくこと、関わりを持っていくことによって、絶えずその状態が変化していく様というのは、まさに「メディアはマッサージである」ことになるのではないだろうか、と考えます。

さて、結局のところ、だからどうするべきなの?といった着地点も見えぬまま、マクルーハン先生のコトバは個人的に腑に落ちていくという状態。はたしてこれで知人に説明することはできるのだろうか?というますますの不安がつのります。

でもきっと、有象無象が切り取られたiPadがあればクリアになるはず!ということで個人的に購入が今決定されました。


3次元ディスプレイの直感

突然ですが、直感は大事だとおもいました。

というのも、今日は天気がいいので洗濯物を干して、美術館にいこうと思い、あまり詳しくないので、東京都現代美術館に行くことに。サイバーアーツジャパンというメディア芸術の企画展を実施しているらしい、とここまでは押さえて地下鉄に乗った訳ですが、到着後twitterを観てみると、阪大石黒教授明和電機土佐社長 (@MaywaDenki)との対談!があるということをケツダンポトフのそらの (@ksorano)さんのtweetで知る訳です。
もしかすると、Twitterを流し読みして読んでいたのかもしれませんが、まったく記憶がありません。おおお。

さて、イベントタイトルは「バカロボへの道」。ロボットコンテスト「バカロボ」を題材に語り合う、ということなのですが、第一部は、「バカロボ」DVD上映、第2部はバカロボ学会と題して、日本のメディア芸術とロボットカルチャーと題して語り合うというものでした。

対談の流れはまず最初に、土佐社長がバカロボに至った経緯を自身の作品の進化を説明して語っていきます。その作業は、自分を理解する手法として、NAKI シリーズエーデルワイスシリーズについて作品解説をおこないました。

自分がわからないから、まず分解しようというアプローチがNakiシリーズで、自分では無い女性をテーマにしたのがエーデルワイスシリーズということで、なるほど、これは芸術であると全く納得できました。

特に、人間の声帯を模した機構を有する二つのマシンを説明。(タイトルがわからず、図録買えばよかったと後悔。。。)しゃべるというよりも、声のような音を発する機械は、生き物と近接する何か、に向っているような気がします。

石黒先生は、人間を理解するための手法としてのロボットをコンセプトにプレゼン。最近公開された映画サロゲートを例にとり、そのような未来がくる、とのこと。そしてロボット研究における不気味の谷を超えるアプローチとして、ちょーリアルな造形物をつくった結果についていろいろと話。

面白いとおもったのは、石黒先生にそっくりのロボット(われわれは俗にイシグロイドと読んでいたのですが、、、)を使った実験で、ロボットは遠隔で誰かが操作して話をする、というモノです。説明が難しいですが、ある夫婦と石黒先生が場におり、奥さんがイシグロイドを遠隔で操作し、夫と石黒先生とイシグロイドが話をする、という状況があります。このとき、石黒先生がイシグロイドに抱きつく、と、遠隔で操作しているはずの奥さんは悲鳴をあげ、夫の方は石黒先生を本気でおこる、とうことだそうです。

物体だけを観れば、石黒先生が自分を模したイシグロイドに抱きついている奇妙な状況ですが、その裏に実際の人がいることによって、ロボットを媒介とした不思議な社会が構築されるという事例です。

さらに、オーストリアのカフェにイシグロイドを放置し、裏で石黒先生が動かしていたところ、半数の人は気づかない、気づいた人も裏で石黒先生がいることがわかると普通にコミュニケーションをとってきたそうです。へー!

こんな電話があったとすると、電車の中でもしかられない、という話は笑えました。
故に、この次として、人間を超える部分を持つロボットとしてのマキシマムデザインと、人間が人間の造形物として最低限人間だと感じられるぶぶんをとりだしたミニマムデザインについての方向性を示しました。

始終、石黒先生がばっさばっさと既存概念を切り捨てていき、人間に心は無い、というなんと!な結論。また、土佐社長は、われわれは教祖であるとのまとめまで飛び出す、なんともおもしろいイベントとなりました。
芸術にせよ研究にせよ、something newをつくるのはだれもが教祖であるよな、と思う次第です。

こんな話を聞いて、ロボットと思考する機械について、そしてロボットはどういうカタチで自分の生活に入り込んでくるのか、考えました。

まず、ロボットと思考する機械について。バカロボにせよ、土佐社長の作品にせよ、ロボットや造形物自身が何らかの思考を行うということは無いモノばかりであり、あくまでロボットの作り手である人間とオーディエンスである人間との間に存在するインタフェースの造形であると言えます。また、石黒先生の研究は人間を知る新しい発見がありますが、今回のトピックは源流は各種SF作品にヒントがありますし、特に士郎正宗氏の攻殻機動隊の世界における擬体のようなモノはどうあるべきか?という造形上の課題として位置づけることができます。

さらにいうと、情報収集と解釈については、簡単なことであれば、Webの情報検索の仕組みによってある程度できるとすると、ロボットが思考すると大層に考えなくてもいまでもパソコンで常識的な情報処理は実現できてしまいます。

故に、思考する機械とはなにか?ということに関して言えば、喜怒哀楽をのぞけばいまでも充分思考しているよ、とこうなります。さらに、人間にも心が無い、ということにしてしまえば、ロボットのような造形物の向こう側でどのような処理が行われていようとも、表出する表現が適切であればロボでも人間でも関係ないぜ、と言えます。

では、ロボットはどういうカタチで自分の生活に入り込んでくるのかについて。
ロボットが自分と対峙したときに、そのロボットの向こうの複数の人と話すとしたら、カタチが同じままでよいのだろうか?、もしくは、一つのロボットに対して複数の見た目を割り当てていいのか?について考えました。

ここで、今のパソコンをイメージするなら、メールやチャットなどでは相手を想像しながらテキストを入力しますが、実際の相手を知っている場合と知らない場合があります。
その区別を取り払うのが、アバターのようなシンボルとなります。ロボットが人と人との間に介在するインタフェースとなるならば、このようにアバターとして相手を想起できるようなカタチにかわってもらうのがいいのかも。

一方で、データの表示のように入出力が個人ではないような事項の場合には、別に相手のカタチにかわる必要が無い。そういう意味では、見間違えること無く自分のロボット、と特定できるようなカタチがあればよいということになります。

これらのことをぼんやり考えながら、いきなり飛躍しますが、つまり人間と共生するロボットというモノを構想してみると、それは3次元ディスプレイである、と思いつきました。

ロボットに対して対話を行う、あるいは、ロボットを介して他者と対話を行う場合、そのコンテンツによってインタフェースの形態はかわるべきである、といえます。
携帯電話にせよ、iPadにせよ、パソコンにせよ、ディスプレイと入出力装置によって様々な機能を実現しています。今では、どこでも、いつでもこれらのデバイスを使って情報をやり取りしています。
ロボットがそれらの機能を肩代わりしてうまくやってくれるとするならば、ロボット単体で勝手に仕事をしている存在とは別に、使用者である自分の能力を広げるような傍らにいるロボット従者のような存在も想定できます。つまり、そいつは5感を持ち、コンテンツにあわせて見た目がかわってくれるような、3次元のディスプレイのようなモノではなかろうか?ともやもや頭のなかに浮かんできました。

こう考えると、ロボットが勝手に暮らしの中にあるとイメージするよりも、ぐっと安心したイメージになるなー、と個人的には勝手に合点がいきました。

で、さらに、ロボットに、自分が何となく思いついて今回のイベントに遭遇したように直感が備わったとしたら、そりゃーもう人間的な何かを感じざるを得ないだろうなー、とひらめく訳です。