近況報告と、これから

先日、大学院の学位を取得いたしました。

本来ならば、皆様に直接御礼申し上げなければいけないところですが、引越準備でばたばたしてしまい、結局引越を迎えてしまいました。改めて時間を見つけては、御礼行脚の旅に出たいと思います。どうかご容赦を!

まずは、指導を頂いた先生方を始め、研究やデザインにコメントを頂いた方々、また、支えていただきました家族に感謝申し上げます。

今後はIT関連企業でお世話になります。私という、よくわからない人物を採用いただくということで、ありがたいと思うと同時に、しゃかりきにがんばりたいと思います。
こちらは、ちょーすごいiPhoneアプリを開発している企業ですので、お話できる範囲で紹介できればと思います。

さて、学位取得と就職にあたって、研究室と事務所の方々に激励会を開いていただきました。久しぶりに多人数でがやがや食事ができたので、本当に楽しかったです!改めてお礼申し上げます。プレゼントは、速攻使い倒したいと思います!ありがたい!

さらに、机下でいろいろと勉強・研究・経験させていただきました川崎先生と奥様に学位記をご照覧いただきに上がりました。改めて感謝申し上げるとともに、激励の言葉を頂きました。貴重なアルコールや食事は、久しく(というかほぼ初めて?)の味覚でした。
さらに、プロダクトデザインの奥義となるコメントもいただき、今後のデザイン活動をするにあたって、確実な道標したいと思います。がんばります!

などなどと、激動の数百時間でしたが、これから先きの数ヶ月、また怒濤となり更新がままなら無くなるかもしれませんが、学位を頂いたという社会的責任をふまえた、デザインの研究、研究としてのデザイン、デザインによる研究という視座から、日々の生活からの気づきや、新しいコンセプト、問題提示など、幅広くエントリを続けたいと思います。

それでは、皆様今後ともどうぞよろしくお願いいたします!


意識下での駆動力

September 11

また今年も当たり前に9月11日がやってきました。2001年の9月11日はもはや一昔になりつつ有りますが、個人的な世界認識を強烈に変化させたWTCの出来事がありました。

この日何をしていたのかについては、別の場所では記述しているのですが、北海道ツーリングの準備をしていた夜でした。とつぜん煙を噴くWTCの映像がテレビに流れました。

火事?とおもったら飛行機が突っ込んだという衝撃。明日から世界がかわると思いました。そして、遠景から見るビルと飛行機には、正直なところ人が乗っているということが実感できるものではありませんでした。そして崩壊。

現場近くの映像で、ようやく現実感をもったものとなってきました。そして、明日から世界がなくなるんじゃないだろうか?と思ったものです。ちょっと大変じゃね?と友人に電話してみたり。

ところが翌朝、予定通りに出発をして、街を走り、山河を抜けてると、そこには日常の生活。立ち寄る牛丼屋にも当たり前に並盛りが売られていました。

果たして、この生活にあの事件は連環しているのだろうかと、はたと思ったのです。関係がないと割り切って生活しているけれど、与えられるその原因や因果が明らかにならない薄気味悪さ。そしてそのまま世界は日々の動きを止めないのだと考えたのです。

今になってみれば、普通の人はそんなことを考えるほど暇じゃない、ってこと。そして、そんなことを考えるよりも、もっと楽しくなった方がよい、ということ。もちろん自分も、我がことのように思えなかったということで、なんともいえない罪悪感も有ります。

しかし、自分の場合は、非日常に旅立とうしていたその矢先に、更なる非日常となる出来事が起きてしまい、非日常の中の日常性がより際立つ結果となったことで、日々の営みと世界との関係をどうしても意識してしまうこととなりました。ややこしいですね。

このことが、いろいろなモノゴトの根っこが見えない不気味さを、事象と事象とから仮説を組み立てて推理することで自分で納得するというクセになり、その推理による直感から縁あってデザインという方法を研究し実施することに至っているように思います。

そして、昨今、これも縁があって、911の当日に米国で事件にまつわる不可解な出来事を経験した方とお会いする機会がありました。その出来事で、その方は残りの人生をどう過ごすか決定的に変わったそうです。

あれは何だったのか?亡くなった方が多数いる事件の目的と結果は何だったのか。そして結果的に事件よりも多数の死者を出す戦争も、いったいなんなのか?その事象と事象から推論と仮説をたて、さらに検証を行うのが、私の意識下での駆動力なのかもしれません。


ランダムと退屈

かなり間が空いてしまいましたが、何を考えていたかというと、情報について。そして某社のSさんに、コミュニケーションが人間の目的なんでは?という話をうかがい、ずっと頭に。何か答えが出た訳ではないけれど、電話で友人と話をしてコミュニケーションについて思いつくことがあったのでメモです。

コミュニケーションの目的について、それはランダムネスの扱いだと考えることができます。

まず、ビジネスにおけるコミュニケーションには、正確な伝達が望まれ、それにはランダムネスが排除される傾向が有ります。一個なのか10個なのかなど、間違えるとめんどくさいことは、極力無しの方向になります。つまり、なにも人間がやり取りしなくてもいい情報だともいえるのですがね。

一方で人間にとって重要なのは、もっと別の生産性はあまり関係ないコミュニケーション。単純には、なぜ人はおしゃべりをするのか、ということ。それはランダムネスを得ようとしているのではないか、と考えることができます。

それは脳みその動きと関係していると想像できます。人間は、なにかモノゴトを習得したり、考えたりする時に、属人的なパターンにそっている場合が多いです。それは習慣やクセ、個性などと呼ばれます。そしてこれらはほっておくと固定化される傾向があります。

しかしながら、人間とは面白いもので、パターンが繰り返されることで、退屈が訪れます。脳みそとしては、シナプスの結合が強化されて思考負担が減った結果であるともいえますが、なぜかそれを「退屈」と感じるメカニズムが備わっているようです。(まったくリファレンスを引いていませんので、必要にかられて今後調べると違っているかもしれませんが。。。)

その退屈を解消するには、日頃は使っていない何らかの思考のスイッチを起動する必要があります。例えば娯楽は従来の思考パタンとは異なる刺激を投入することで、脳みその使い方を変える営みであるといえます。

で、このプロセスにおいて、コミュニケーションはどのような働きをするかといえば、それは自分が使わない思考のスイッチを、他人からの刺激を利用して押す作業であるととらえることができます。つまり、自分だけでは、適当に考えていても、潜在的に予測されてしまうパタンを超えるために、ランダムな刺激を他人から得ようという作業であると考えます。

そうすると、人の話を聞かない人、というのは、自分で自分の思考のスイッチをランダムに操れる人であり、頑固な人というのは、ランダムな思考のスイッチをオンにすることを拒否する人であるといえます。ランダムさが有りすぎると疲れてしまいますが、なさすぎても退屈するということで、このあたりのバランスをとることが、人間の営みの一端なのだろう、と電話口でおしゃべりしながらぼんやりと考えていたこと。

ま、以上、当たり前なんですが、もし「退屈」と感じるメカニズムが経験則でそうだというのではなく、その機序が明らかになったら「愉快」だなーと思う今日。