メッセージとマッサージ

遅ればせながら、iPadをさわらせていただきました。ありがたい話です。

iPad
iPad

所感としては、一つ、ディスプレイがきれい、一つ、片手で持つのは大変、一つ、実際使うとなると傷だらけは覚悟、といったところです。生活の中では、積まれた本の上に置かれることが必至じゃないかと勝手に合点がいっています。

さて、このこの数ヶ月、インターネットのサービスやコンテンツが、実際にぐっと自分の生活を包み込んできたような心持ちでいます。これは、個人的な感覚なのか、それとも本質的な変化であるのか、奇妙に思っていました。

個人的に感じる、iPadの可能性やネットの変化、これがどれくらいのインパクトを今後の社会にもたらすのか。例えば家族や知人は、そういう方面は全く疎いので、説明してる自分が変なのかも?などと若干不安になることもしばしば。じゃ、どうするかということで、直感がささやいたマクルーハン先生をひもといてみました。直感なので、適当なことも出てきますので、その辺りはひとつ。。。

マクルーハン先生というのは、「メディアはメッセージである」ということばが有名です。このことばは何を意味しているかというと、情報伝達において、その意味する情報の前に、その情報が伝達されうる媒体=メディアそのものに、重要な意味があるという主張です。(という雰囲気がwikipediaにかいてあります。べんりですね!)

さて、メディアというコトバについて、ほんの数年前までは、電話に新聞や雑誌、テレビやラジオ、最後にwebブラウジングという、メディアに最適化されてきたモノと情報が密接に絡み合い、そのプロダクトを使うことによって、だれもが違うメディアであると識別できうる存在でした。

もちろん、それらの成り立ちや得手不得手、社会的位置づけはまちまちで、それゆえに「メディアはメッセージである」ということばも比較的実感をもって理解することができました。

ただし、今取り上げようとしているメディアはそれとはことなります。取り上げようとするのは、twitterとよばれるマイクロブログ、ustreamというネットの映像配信プラットフォーム、そして、foursquareとよばれるジオタギングをメインとしたプラットフォームです。これらをご存知のものと仮定して、、、

これらにみられる共通点は、インターネットが使えればどこでも使えること、コンテンツは利用ユーザ自身であること、プライベートメディアとマスメディアが曖昧、などいったといったことがあげられます。そして、なんらかの定型的な区切り方ができないコンテンツやメディアであるといえます。

プロダクトデザインの観点から、さらにこれらを統合するならば、人間とメディアとの最後の境界1mmになにがあるかってことかと思います。その意味において、出入り口となるスマートフォンにスレートなどなどは、新しい何かのインタフェースとして、メディウムとして本来は形態を持たないディスプレイの一断面を切り取ったモノたちだといえます。イメージとしてはこんな絵になります。

cut out
こんなイメージ

従来はこれらの不定形な有象無象の空間(サイバースペース?ということにしてみようかとも思いましたが、もっと抽象的な情報空間のようなモノを想定しています)に対して、区切りを付けるためにメディアがカタチを与えてきました。が、これからは、メディアはこの有象無象をあらゆる角度から投影するためにさまざまなチャネルが開かれたものとなり、その経験はいままでとは違ったモノになると考えることができます。

そして、その中心になるのは、我々自身が何かを発信したり受信したり転送したりといったアクションになるのではなかろうか、ということになります。
マクルーハン先生は、このような概念を、「グローバルビレッジ」ということばで表していたのかもしれません。

さらにはこのような有象無象な状態をみてみると、なにかもふもふしてみたくなります。UIとしてのタッチインタフェースは操作をするという実際上の目的を超えて、カタチの見えないモノを懸命にさわってカタチづけようとする象徴にも思えてきます。

つまり、主体的に情報にアクセスしていくこと、関わりを持っていくことによって、絶えずその状態が変化していく様というのは、まさに「メディアはマッサージである」ことになるのではないだろうか、と考えます。

さて、結局のところ、だからどうするべきなの?といった着地点も見えぬまま、マクルーハン先生のコトバは個人的に腑に落ちていくという状態。はたしてこれで知人に説明することはできるのだろうか?というますますの不安がつのります。

でもきっと、有象無象が切り取られたiPadがあればクリアになるはず!ということで個人的に購入が今決定されました。


3次元ディスプレイの直感

突然ですが、直感は大事だとおもいました。

というのも、今日は天気がいいので洗濯物を干して、美術館にいこうと思い、あまり詳しくないので、東京都現代美術館に行くことに。サイバーアーツジャパンというメディア芸術の企画展を実施しているらしい、とここまでは押さえて地下鉄に乗った訳ですが、到着後twitterを観てみると、阪大石黒教授明和電機土佐社長 (@MaywaDenki)との対談!があるということをケツダンポトフのそらの (@ksorano)さんのtweetで知る訳です。
もしかすると、Twitterを流し読みして読んでいたのかもしれませんが、まったく記憶がありません。おおお。

さて、イベントタイトルは「バカロボへの道」。ロボットコンテスト「バカロボ」を題材に語り合う、ということなのですが、第一部は、「バカロボ」DVD上映、第2部はバカロボ学会と題して、日本のメディア芸術とロボットカルチャーと題して語り合うというものでした。

対談の流れはまず最初に、土佐社長がバカロボに至った経緯を自身の作品の進化を説明して語っていきます。その作業は、自分を理解する手法として、NAKI シリーズエーデルワイスシリーズについて作品解説をおこないました。

自分がわからないから、まず分解しようというアプローチがNakiシリーズで、自分では無い女性をテーマにしたのがエーデルワイスシリーズということで、なるほど、これは芸術であると全く納得できました。

特に、人間の声帯を模した機構を有する二つのマシンを説明。(タイトルがわからず、図録買えばよかったと後悔。。。)しゃべるというよりも、声のような音を発する機械は、生き物と近接する何か、に向っているような気がします。

石黒先生は、人間を理解するための手法としてのロボットをコンセプトにプレゼン。最近公開された映画サロゲートを例にとり、そのような未来がくる、とのこと。そしてロボット研究における不気味の谷を超えるアプローチとして、ちょーリアルな造形物をつくった結果についていろいろと話。

面白いとおもったのは、石黒先生にそっくりのロボット(われわれは俗にイシグロイドと読んでいたのですが、、、)を使った実験で、ロボットは遠隔で誰かが操作して話をする、というモノです。説明が難しいですが、ある夫婦と石黒先生が場におり、奥さんがイシグロイドを遠隔で操作し、夫と石黒先生とイシグロイドが話をする、という状況があります。このとき、石黒先生がイシグロイドに抱きつく、と、遠隔で操作しているはずの奥さんは悲鳴をあげ、夫の方は石黒先生を本気でおこる、とうことだそうです。

物体だけを観れば、石黒先生が自分を模したイシグロイドに抱きついている奇妙な状況ですが、その裏に実際の人がいることによって、ロボットを媒介とした不思議な社会が構築されるという事例です。

さらに、オーストリアのカフェにイシグロイドを放置し、裏で石黒先生が動かしていたところ、半数の人は気づかない、気づいた人も裏で石黒先生がいることがわかると普通にコミュニケーションをとってきたそうです。へー!

こんな電話があったとすると、電車の中でもしかられない、という話は笑えました。
故に、この次として、人間を超える部分を持つロボットとしてのマキシマムデザインと、人間が人間の造形物として最低限人間だと感じられるぶぶんをとりだしたミニマムデザインについての方向性を示しました。

始終、石黒先生がばっさばっさと既存概念を切り捨てていき、人間に心は無い、というなんと!な結論。また、土佐社長は、われわれは教祖であるとのまとめまで飛び出す、なんともおもしろいイベントとなりました。
芸術にせよ研究にせよ、something newをつくるのはだれもが教祖であるよな、と思う次第です。

こんな話を聞いて、ロボットと思考する機械について、そしてロボットはどういうカタチで自分の生活に入り込んでくるのか、考えました。

まず、ロボットと思考する機械について。バカロボにせよ、土佐社長の作品にせよ、ロボットや造形物自身が何らかの思考を行うということは無いモノばかりであり、あくまでロボットの作り手である人間とオーディエンスである人間との間に存在するインタフェースの造形であると言えます。また、石黒先生の研究は人間を知る新しい発見がありますが、今回のトピックは源流は各種SF作品にヒントがありますし、特に士郎正宗氏の攻殻機動隊の世界における擬体のようなモノはどうあるべきか?という造形上の課題として位置づけることができます。

さらにいうと、情報収集と解釈については、簡単なことであれば、Webの情報検索の仕組みによってある程度できるとすると、ロボットが思考すると大層に考えなくてもいまでもパソコンで常識的な情報処理は実現できてしまいます。

故に、思考する機械とはなにか?ということに関して言えば、喜怒哀楽をのぞけばいまでも充分思考しているよ、とこうなります。さらに、人間にも心が無い、ということにしてしまえば、ロボットのような造形物の向こう側でどのような処理が行われていようとも、表出する表現が適切であればロボでも人間でも関係ないぜ、と言えます。

では、ロボットはどういうカタチで自分の生活に入り込んでくるのかについて。
ロボットが自分と対峙したときに、そのロボットの向こうの複数の人と話すとしたら、カタチが同じままでよいのだろうか?、もしくは、一つのロボットに対して複数の見た目を割り当てていいのか?について考えました。

ここで、今のパソコンをイメージするなら、メールやチャットなどでは相手を想像しながらテキストを入力しますが、実際の相手を知っている場合と知らない場合があります。
その区別を取り払うのが、アバターのようなシンボルとなります。ロボットが人と人との間に介在するインタフェースとなるならば、このようにアバターとして相手を想起できるようなカタチにかわってもらうのがいいのかも。

一方で、データの表示のように入出力が個人ではないような事項の場合には、別に相手のカタチにかわる必要が無い。そういう意味では、見間違えること無く自分のロボット、と特定できるようなカタチがあればよいということになります。

これらのことをぼんやり考えながら、いきなり飛躍しますが、つまり人間と共生するロボットというモノを構想してみると、それは3次元ディスプレイである、と思いつきました。

ロボットに対して対話を行う、あるいは、ロボットを介して他者と対話を行う場合、そのコンテンツによってインタフェースの形態はかわるべきである、といえます。
携帯電話にせよ、iPadにせよ、パソコンにせよ、ディスプレイと入出力装置によって様々な機能を実現しています。今では、どこでも、いつでもこれらのデバイスを使って情報をやり取りしています。
ロボットがそれらの機能を肩代わりしてうまくやってくれるとするならば、ロボット単体で勝手に仕事をしている存在とは別に、使用者である自分の能力を広げるような傍らにいるロボット従者のような存在も想定できます。つまり、そいつは5感を持ち、コンテンツにあわせて見た目がかわってくれるような、3次元のディスプレイのようなモノではなかろうか?ともやもや頭のなかに浮かんできました。

こう考えると、ロボットが勝手に暮らしの中にあるとイメージするよりも、ぐっと安心したイメージになるなー、と個人的には勝手に合点がいきました。

で、さらに、ロボットに、自分が何となく思いついて今回のイベントに遭遇したように直感が備わったとしたら、そりゃーもう人間的な何かを感じざるを得ないだろうなー、とひらめく訳です。


米中メディアにみる鏡像反転

新聞への広告出稿がWebのそれを抜いた、とか、日経新聞が有料のWebコンテンツ配信を実施するなどの報道を受け、メディアについて考えた。というか、考えていたし、考えてみます。

思うのは、メディアについて2冊の本を読んで、全然コンテンツが違うはずなのに、ほぼ同じことが書いてあって興味深いということです。例によって本が手元にないために霞の向こうから記憶を呼び起こしますので、不正確なところはどうかご容赦を。

さて、一冊は、N.ChomskyとE.S.Harman の「マニュファクチャリング・コンセント、マスメディアの政治経済学」という本。
プロパガンダモデルと呼ばれる観察によって得られた仮説の検証を行った著作です。主にアメリカの新聞等のメディアについての分析を行いますが、メディアがどのように世論操作を行っているのか、ということについて主張しています。
これは1)メディアの所有者はだれか2)利を与えるのは誰か3)情報ソースはどこか4)攻撃をするのは誰か5)非難対象はなにか、というモデル、あるいは構造と言い換えてもいいかもしれませんが、それがどのように機能しているのかを取り上げています。
例えば、東西冷戦下のポーランドで殺害された神父の報道については、犯行が東側当局とされ、その死体の状態や経緯などが詳しく報道されたが、一方、同じ頃におきたエルサルバドルでの尼僧の殺害事件などでは、米国が支援していたと思われる政府軍の犯行であると言われおり、その報道は控えめに、かつ、メディアとして自制した内容であったとされています。
つまりは、メディアが報じる内容は、そのメディアの取り巻く利害得失によって異なってくることが明白であるということになります。その上で、あたかも合意が生成されたかのような体裁をとりますが、実際には何らかの意図に基づいた捏造であるぞ、とこうなります。

もう一冊は、「中国の嘘ー恐るべきメディア・コントロールの実態」という本です。この本は、中国国内でいかに真実の報道を行うことが難しいか、ということを説明した内容となります。
中国国内で報道される内容は、ほぼすべて中央発の内容であり、新華社や中央電子台での報道内容はすべて中央の方針にそって行われている、とのことを説明しています。
また、特徴的なのは、情報というのが、属している社会階級によって得られる内容や質が異なる、ということにあるそうです。
例えば、ある地域で役人の汚職に端を発し暴動が起きた、と仮定します。この情報は、当然ながら中央に伝達される可能性が高いです。(ややこしいのは、暴動がおきたとしても、中央に察知されることを恐れる地方の役人などがその事実を隠蔽するという二重構造になっていることもある、ということです。)この情報は、中央にはフィルタリングされることなくあがったとしても、一部の階級の人にしかしられることがなく、たとえ一般民衆に報道されたとしても、サボタージュとしての批判となるか、あるいは、その汚職を払した別の役人をたたえる、といった構造に書き換えるかして、実際の問題とは異なる論点にすり替えるということがなされる、ということがあります。
さらに興味深いのは、そのような報道を逐一中央が行うのではなく、報道機関がその意向に添うように報道内容を選択し編集する、ということが有るそうです。

この2冊については、イデオロギーが異なるはずの米国と中国を主な対象としているにも関わらず、報道についての結果はほぼ同じじゃないか、ということに驚かされます。
つまりは、メディアの報道は誰にとって有益なのか、ということが、記者個人の良心如何に関わらず、報道機関が存立する構造から規定されてしまう、という事実です。
報道の自由が無い、といって中国を批判するのは容易いですが、米国にしても向いている先きが異なっているだけで、自由な報道は無いとも言えるわけです。日本においても、当然ながら出資するスポンサーには逆らいにくいし、免許を与える機関に対する批判もしがたい。宗教団体の資金は侮れなかったりしますし。

ただ、当然米中で異なる点はあります。
米国では、上記のような分析と批判は自由にできます。メディアに取り上げられるかといえば否ですが、主張する権利もあるし、それを妨げる規制も少ない。そのニュースが大々的に取り上げられるか否かは、何れかの資本にとって有益に作用するかどうかという一点につきるとも言い切れるわけです。そうでれば、ウォーターゲートのように、政治中枢を暴くこともやぶさかではない、とこうなります。
つまりは、政治に優先する資本がメディアをコントロールしているといえます。
中国の場合は、政府批判をすることは危険な行為であり、正確な報道等を行おうとすると機密漏洩や国家反逆の罪に問われる可能性があります。しかしながら、個人的な観察では、購買行動を喚起するような報道や広告、広報は規制されないし、お笑いや下世話なメディアコンテンツも政治風刺に関わらない限り、自由に行われているようです。よって言えることは、資本に優先する政治によって、メディアがコントロールされていると言えます。

以上のように考えていくと、なんだ当然のメディアリテラシーじゃないか、という結論に行き着く訳でもあります。その上で、個人的にメディアに注意を払うべきだとしたら、有るべき論の展開であったり、宗教的な言説の論調であったりします。ということで、くわばらくわばら。

(以上のことを相対化するには、やっぱり海外メディアにふれることなのかなーとおもうわけです。例えば、APのニュースをよく見ますが、昨今トヨタのことが結構でてきます。安全というある意味では有るべき論から非難をされてますが、おそらく、トヨタのもつ内部留保を市中にはきださせて、日本から資本を本格的に引きはがそうとする作戦なのかもともおもいます。モノづくりとは別の次元でことが動いているというにおいを感じるのも、こういった報道からだったりします。。。)

こちらは映画になってDVDもあったりします。