インターネット上での情報生成について。
インターネット上の情報は、どのように生成されるのか?
この時に、人力であるのか、自動であるのかに特徴があると考えます。
人力について。例えば、このブログ、これは私がキーボードに向かってかたかたとキー入力をしていきますと、文字がスクリーンに現れて保存されてゆきます。
つまり、私がコンピュータに向かって何らかの動作を加えない限りは、生成され得ない情報であるといえます。
一方、自動の情報生成について。
まずは、ネットワーク上の信号のやり取りの交通整理は、ネットワークの決まり事をコンピュータが識別してかってにやってくれています。よって手っ取り早く自動に生成される情報として、このネットワークのトラフィックの状況があると考えることができます。
また、防犯カメラの映像などを記録するとなれば、これはずっと録画するならば自ずと情報がずっと生成されていることになります。
以上のように、大雑把には人力なのか自動なのかに区分されて、ネットワーク上の情報は日々蓄積されていると言えるでしょう。
ただ、当然のことながら、何らかの意図に基づかない情報には、あんまり意味がない。よって、情報の抽象度をあげていく、すなわち、情報の意味を要約することで、使い道のある情報として存在し得るようになります。
ここが、今のネットワークによる情報共有の大きな障壁となっていると考えます。
すなわち、意味のある情報がネットワーク上に流通するには、まずは一次情報としてネットワーク上に生成されなければならない。そこで、ブログサービスや写真や動画の共有サービス、さらには、つぶやきまでもがTwitterというサービスでネットワークによる情報共有のためのツールとして登
場しました。でもやっぱり、その情報をネットワークにあげようとする、人間の意図がない限りは、共有され得ないことは否めでしょう。
つまり、今のネットワーク環境において、実世界からネットワーク世界へ情報を橋渡ししている人間が、この世の中には確実にいる、ということがいえます。
実社会において、ネットにどれだけ依存して生活しているのか、という点については個々人にばらつきはあるとおもいますが、ネットになかったことは、世の中でもなかったことになる社会になりつつあるのではないか、という感覚を最近は特にもちます。
よって、人力に依存した情報生成によってネットワークの意味ある情報が付加されていくならば、その付加する人には正確な情報を意図を持たずに機械のように生成していくことが今の技術水準では求められており、それがネット産業を支える基本的労働力となっているとおもいます。
また一方で、明確な意図に基づいて情報を取捨選択し、発信していくというのも、もう一つの方策として当然ながら重要となるとおもいます。
以上のようなことをなぜ考えたかというと、ただただ机にかじりついて、ネットに情報をあげようとしている自分を客観的に見たときに、実社会からネットワーク空間へと情報を変換する”媒介者”としての自己の存在を見いだしたからです。そしてその情報は機械的であり(すなわちだれでもできるようなこと)、人間コンパイラとしてHTMLに記述しているのかと思うと、なんだか悲しいじゃないか、と思ったのです。
そのあたりの、今は人間が媒介しなければならないような情報変換を、どうにか自動化できないだろうか。
その願望は、いわばエージェントとしてのロボットとして結実するのではないかとおもいます。