あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくおねがい申し上げます。今年のテーマは、なんとなく「光あれ!」。
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本年も残すところあと数日ということで、何はともあれあっという間に年が変わる!時間がすぎるという事は世の必定ではあります。が、半減期はどうにもこうにもならないもので、一つの厳正なる時を刻むものでもあります。
で、今年は原発について関心をもたざるを得ない一年となってしまったのですが、原発ってどんな感じなの?とか、核燃料の廃棄とはどうなっているの?、核燃料はドコから来てるの?等を調べてみた訳ですが、きっと廃炉技術が喫緊の課題となりつつあるのではないだろうかそうなんじゃないかと思い今回は廃炉について調べ物をつらつらと。
参考にしたのは、原子炉解体という本。日本ではJPDR(Japan Power Demonstration Reactor)という原子炉を解体した実績があり、その解体の過程で検討された技術や過程を記した本となります。
使えなくなったモノを処理するという行為の一つとして廃炉がある訳ですが、一般的なモノと原子炉の何が違うのか、それはひとえに原子炉がその動きを止めても、放射能を持っている、という点になります。
原子炉が放射能を持つ原因は二つあって、一つは核燃料や核分裂生成物など放射性物質そのものが存在する事による放射能。もう一つは、放射線(具体的には中性子)にさらされることによって放射性物質化する放射化現象に起因する放射能です。
これらが原子炉全体に強度が異なったカタチで分布しています。
よって、作業の困難さがドコにあるかというと
が上げられます。
ここで、これを考慮するにあったて尺度とするべき最初に書いた半減期という概念ですが、半減期が短い物質というのは、単位時間内にたくさんの放射線を出す、ということ。逆に、半減期が長い物質は単位時間内に出す放射線が少ない、という事になります。
なので、単純な話になると、弱い放射線を出す物質がたくさん一カ所に集まっていることと、強い放射線を出す物質がちょっとだけあるのだと、結果としてでてくる放射線の強さ(ここでは単位時間に計測される放射線の量)は同じになります。なので、無くなる訳ではなく、時間とともに放射能は弱くなる、という事が前提になります。
それでは以上のように放射能は弱くすることも無くす事もできないとした上で、健康に影響の無い範囲での存在してしまった放射性物質の管理を実現するのが廃炉の技術の目的となります。具体的には、
ということになります。
で、どうするかというと、
a.放射性物質の分布や量を計測する、については、運転状況から、発生するであろう放射性物質をコンピュータシュミレーションによって推定するとともに、実際に計測することによって検証を行う、ということになります。このための技術として計算機科学および計測装置の開発が行われました。
b. 放射線を出すモノを安全に集める、については、安全の為に距離をとるという原則にもとづいて、ロボットによる遠隔操作などの技術開発や、配管内側の内側を浸食したりやコンクリート表面をひっぺがすなどの放射性物質除去のための化学的/機械的技法の開発が行われました。
c. 遮蔽して一カ所にまとめる、については、鉛や鋳鉄できたコンテナを製作して放射性物質をおさめて保管するという技術の開発が行われました。
これらの結果として、原子炉はどうなるかというと、濃度もことなり場所も違う、原子炉施設に分布していた放射性物質が、一定の放射線強度のレベルのそろった状態で一カ所に集められて保管された状態になります、という状態に置かれます。
で、この結果どのようにいいことがあるかというと、
そうなのか、といえばそうなんですが、一つモヤモヤとした疑問があるのは、資源回収も土地活用もできない代物だったら(例えばコンクリートを回収するのと新しくコンクリートを打つのだったら後者の方が安い、貴金属が回収できない、へんぴな土地にあるために新たに施設を建てるニーズがない、放射性物質を保管しておく別の経済的場所がないといった場合)、原子炉を解体する経済的利得はあまりない。あるのは、健康にどれだけ影響を減らす人道的側面での利益。
。。。だったら、結論として思うのは、解体によって被爆するよりも、天候や天災によって停止された原子炉が壊れたり、保守されない事によって放射性物質が飛散されないならば、そのまま時間の経過に合わせて放射線量が小さくなるまで放っておくほうがよっぽど経済的なんじゃなかろうか、ということ。要は、壊さなくていいんじゃねぇか、、、ということ。なので、既に原子炉があるところは、残念ながら今後もずっと原子炉があることになるであろうということが想像されます。本質的に解体を伴う原子炉の廃炉は、既存の原子炉の建て替え時に発生する事象であるとも言えます。
ちなみに、本書中でも、廃炉にあたって海外ではシールをして放置しておく例も記載されていたり。
追記:こちら書いた後で見つけた資料。当時の段階でも密閉管理や遮蔽隔離の例が多い。
一方で福島第一の原発については、原子炉の構造自体が破綻していて放射性物質の飛散がまだあるであろう、という隔離や管理ができない状況にあります。なので、この場合、廃炉にあたって解体の技術だけではなく、核燃料の抽出技術や、密閉技術の開発が必要となってきます。これらの技術はおそらくまだ全然開発されていないはずで現在進行形で開発するしかないのかなと考えるに至りました。
とはいえ、この前人未到の状況に至りつつもまずは一年を乗り越えられることができたという感謝、とともに、良いお年が迎えられますように!
こちら読んだ本
こちら新装版がでているようですね
普通に日常生活を営んでいると、抽象的思考をどんどんしなくなっていくのかなぁ、と最近考えるので、抽象的思考について考えます。自分自身が抽象的思考が得意なのかというと、なかなかそんなことないな、と思うので、それもまた悩ましいところです。
なぜ抽象とか具象とかが脳内フックに引っかかったのかというと、一つは、「抽象的思考」というものが、どうやら社会において価値を置かれる側面があるらしいぞ、と思った事。もう一つは、デザインとプログラミングおける抽象と具象との関係について、しばし考えることがあったから。
ことばからスタートすると、抽象それ自体を説明するのは、抽象でないことから始めるとわかりよいのではないかということで、まず反対語から。抽象の反対語は具象。具体的なこと。実体を備えて固有の形態をもっていること。また、そういう形、と辞書に書かれています。だからなんだと頭を抱えてしまいますが、中身が詰まっていて識別できる状態にあることだとおもわれます。
例えば、美術の領域では抽象画と呼ばれる絵画形式があるのと反対に、具象画とよばれる形式があります。具体的である以上、人物や風景が描かれることによって、見る者が表現している対象がなんであるのか、明確にわかるということになります。一方、抽象画はなんだろうこれ、といったようで、指し示している対象が明確でなかったりします。
具体的に話せば、、、といった具合に話を切り出すことがありますが、これはたとえば、何をどうしてという事を詳細にお話をすることかと思われます。完結に話せよ、という場合は、お話を抽象化して結論から話をし、制限内で必要な情報を伝達する、ということになります。
これら具体的である事と抽象的であることがどちらが優れているとかいうことはないと思われるのですが、どうやら抽象的である事に価値があると思われるのは、抽象的であることは、汎用性が高いのではないか、と思われます。
抽象的であることが汎用性が高いとは、先ほどの絵画の例ですが、具体的な対象を描くということは、その対象が持っている具体性を伝えるものとなり、絵画の価値というものが、その描かれた対象の価値と直結すると言えます。美しいモノを描けば美しくなる可能性が高いし、そうでなければそうはならない。
一方、抽象画は概念(あるいは観念でありますが)を絵画として表現したものであって、その概念の美的な構造や特徴を端的に表現することで、例えば美しさを伝えることができるかもしれない。その概念は、例えば色彩の美しさかもしれないし、形象の美しさかもれない。その類的構造は普遍性が高くなる可能性が高いと言えます。
つまり、抽象的に思考するということは、一つの概念によって、様々な事象をとらえるという、まことにエコノミーな思考であるといえます。
ここで翻って、ビジネスにおいては、最小資源で最大効用を挙げたいのが理屈ですので、抽象的な思考によって、難しい問題を簡単に解決するという、ビジネスの本質となるのだなぁと考え至わけです。
しかしながら、なぜ人は抽象的に思考できないかというと、ひとつは抽象化することが面倒なこと、また、抽象は人と共有することが難しい場合があることかなと思います。
抽象化することが面倒なのは、目的が無いと抽象化できないにつきます。美しさを抽象するには、何が美しいのか、また、美しさはどういう点なのか明確にしなければ、複雑な具体の世界から特異点を残せず、不要な部分を削げなくなってしまいます。すなわち、明確な意志の力が必要な作業となります。
また、抽象が人と共有する事が難しい場合があるということですが、これは上記の抽象化の過程において各人が抽象として切り取った概念、その生成の過程が不明であるので、時として抽象化の意図が理解できないことが生じえます。そのため、抽象的でよくわからない、と言われる事態が発生しうるわけです。へぇ、たくさんの線がならんでますねぇ。。。という現代美術作品とかに往々にして生じる現象かなぁ、と。
以上のように抽象から具体にモノゴトを適用する場合、また抽象に圧縮された何事かを具体的に展開しなければならないという事になる訳です。この側面では、抽象的思考だけではなく、やっぱり具体的思考および行動に価値があるというフェイズになります。細かいごたごたが気になっちゃって抽象的なことまで考えがおよばないよ、ということでも、価値は当然ありますぜ!という展開でもあります。
さて、ようやくプログラムとデザインの話です。プログラマではないですが、プログラム的な何かを書くときには、抽象化の作業が重要です。
簡単なところですが、何かを変数として何かの処理を行う、という点で、まず抽象化が必要。で、ある言語だと変数の型が決まっていて、何を入れようとしているのかを、具体的に考えなければいけない。一方、ある言語だと厳密に型が決まっていないので、なんでもかんでも変数に突っ込むことができる。
それらの抽象度が高いのはどっちだ?という議論は難しいのですが、動けばいいという結論には違いがなかったりします。そういう意味では、抽象度が高い作業だなぁと思います。
一方、そのプログラムを受けてデザインをつくる場合、抽象的なプログラムを具体的な世界に結びつける作業がデザインの役割になったりします。ほとんどカタチのないプログラムに対して、人が理解し得るボタンやアイコンをつくるにせよ、四角や丸という抽象的なカタチからどこまで具体的なカタチにするか、あるいはしないかという判断は難しいです。
個人的には、点と線だけでいいんじゃねぇか?と思ってみたりもするんですが、それは抽象的すぎて情報の解凍ができなかったり。なので、より具体的な方向の絵をつくるために、ちょっとラインを加えたり、色をちょっと替えてみたりで印象が変わったり、そういう具体的な積み重ねがなんだかだいじだなぁと思ってみたりもします。
抽象も大事だけれども、具象も大事。このどっち着かずで中腰で耐える、というのが、デザインらしさだと考える次第です。
(という文章を書いて、長い文章かくなら、A < D < Cとかでいいんじゃねぇか、などと、長文失礼いたしました。)