映画「スノーデン」と攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEXと新大統領

3年も!書いてないことが判明しつつ、そもそもインフラ周りが古くもなってきているので、ヤドカリのごとくサーバー引越しを模索しております。

さて、この間、特にどうということはないのですが、IT関連に携わっているとするならば気になっていたのがスノーデンファイル。

オリバーストーン監督の「スノーデン」が今週末より上映予定です。

繁体中国語で、「斯諾登風暴」とかくらしいですね。。。

スノーデンの足跡を辿る!という勝手テーマで香港に行った時にたまたま近所で映画もやっていたのでややネタバレするのかもしれませんが所感を。

映画では、CIAで働くなどしたスノーデン氏が、本来は安全保障や国家保全に当たることを目的とした組織が規定外の情報を収集し、組織の目的とは異なりテロとは関係ないことにその情報をつかったりする実態に疑問を抱き、危険をおかして情報をリークするまでの顛末を、事実に即したかたちで映画化したもの、となります。(間違ってるかもしれない。。。)

この映画で出てくる技術や事象というのは、まさかとおもうようなSFじみたものにも思われます。が、脚色はあるといはいえ、ある程度事実なのだろうなと考えると恐ろしいものです。もはや、インターネットに接続する以上は何かを明け渡す気分でいないとダメだろうなー、という考えにいたります。見応えがあります。

で、そもそもなんでスノーデン氏は危険をおかしてまで事情を暴露したのか、というのは解せない気がしないでもない。何でだろうとハタと筆を止めると思い出されたのがやや古いアニメーションになりますが、攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX。

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このアニメは、サイボーグ化が一般化した近未来、という舞台において、警察に順ずる組織があんな犯罪やこんな陰謀に対して立ち向かう、といった背景のなか、ネタとしては薬害問題(というか丸山ワクチン薬害エイズ問題を下地とした医療問題)と政界疑獄とを絡めて真相を追うサスペンス形式になっています。

この問題を最初にネットにリークしたのが、一人の天才ハッカー、という点がスノーデン氏の事例ににているな、と思われます。(というのは、すでにいろいろなところで言われれているのだろうとおもうのですが、書いているうちにようやく似ている、という気になってきました。)

ここまで考えると、情報は情報として存在しているだけでは、実は影響力を行使し得ないのではないかと考えることができます。スノーデン氏の場合、その時点でインターネットの通信自体はなんらかの方法で傍受されているのだろう、とは思われていたわけで(少なくとも個人的にはそう思っていた)、本当にそうなのかどうかは一般的には分かりようがないのが事実。しかし、メディアに情報の出所を語る張本人がでてきて、本当であると言った瞬間から、彼から語られる情報に信頼性という別の重み付けが加えられるわけで。

アニメの場合はフィクションではあるけれども、情報を公知拡散する方法は情報を語ることを事件化する、というメディア化がキーとなって描かれています。これも、薬害があるよ!といっても、一般的にはそうかもしれないし、そうじゃないかもしれないという価値中立な情報としてそこにあるしかないのだろうなぁとおもいます。というか、スノーデン氏はこのアニメ見てるぞきっと、と考えます。

で、情報の拡散でその情報に光が当たる、というのは良かったね、となるのですが、情報が空疎なままなにやら雰囲気だけが拡大していくのがアメリカ大統領選挙なんじゃなかろうかと藪から棒に思います。トランプ氏の大統領選で記憶に残っているのはメキシコ国境に壁、なのですが、思い返せば恥ずかしながらオバマ氏の選挙戦で記憶に残っているのはyes we canだけ。

ここまで考えてくると、政治に関して素晴らしいこととか、なんだかあんまり聞いたことがなく、政治は本質的にはネガティブな方向にリークされる存在ではなかろうかと思うと思います。故に、スノーデン氏は特異な存在として個人が意を決してというよりは、政治的不均衡や腐敗のある社会構造上においては、条件が揃うと一定確率で生成されうる英雄的パーソナリティなのではなかろうか、などと、これもまたSFネタかと思われるような発想にいたります。

で、結論として思いついた2017年の願いは、オバマ氏とスノーデン氏の超対談。

 

1/1000の圧縮

本が多くて困る、ということで整理をしたいとおもいつつ、次々と本を買ってきちゃってますます混乱をきたす昨今です。

さて、本は物理的に場所をとるということで、いったいどれくらい目方があるのかとおもいググってみますと、漫画でしょうか、単行本の重さを250gと仮定して計算をしておられます。

100冊で25kgもあるのか、とおもうと、果たして人間は一生のうちに何キロぐらい本をよめるのかというのは気になります。で計算してみます。
http://allabout.co.jp/gm/gc/3687/2/

以前、基礎教養は新書100冊という話をきいたので、単行本より軽い重いがあるとして、やはり25kgぐらい。旅行のスーツケースの重量制限がこのあたりなので、何となくイメージできます。

一週間に1冊本を読むと仮定し、かつすべて新書などとすると、年間約50冊。10年で500冊となます。10年で125kg。そろそろ一人で運ぶのは難しい重量となってきます。

それで、10歳のころから本を読めると仮定し、80歳まで本をよめるとすると、70年、3500冊ほどとなります。

すると、先ほどの過程からは875kgとなります。さらにもろもろの雑誌や本を加えるとすると、およそ1000kg、1t程度を読むかもしれないという計算に。

1tはさすがに持ち上げられないな。。。とおもいますが、水に換算すると1m立方にすぎ、お部屋の隅においておけます。たいしたことがないような、すごいような、微妙な量です。

人間が読める量は新聞やネットの記事などこれを増やしていったとしても、高々10倍程度ではないかなぁと想像できます。いっても100倍。年間で出版される本の数や記事は膨大で、すべてを読み尽くすことは不可能。限られた時間でどの本や情報を選ぶか?悩ましいものです。

一方、人間の脳の重さは1200-1400gだそうです。一生かかって1tの本を読んだとして、それが反映されるさきの目方は1/1000。こう考えると、1冊の本をよんだら1/1000に要約できればいいんではなかろうかという、なんの計算だかいまいちよくわからなくなってきますが、そんな気がしてきます。

本を読んだらその1/1000に要約できるか?という判断基準で本を読んだことにできるかできないかを決めるっていうルールを作れるかもしれない、という結論に個人的には至ったわけですが、新書一冊の文字数は12万から15万とあるので、1/1000で120文字。本を読んでツイートしたら読んだことにして捨てる!なんてできたらかっこうぃいなあと思いつつ、本の内容を1/1000にしてくれる素敵プログラムがきっとこれから登場するんだろうなと想像しつつ積ん読本を眺める年度末です。

“お時間”が必要 / 直感の自信

アートと音楽

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あけましておめでとうございます、というか、寒中お見舞い申し上げますな1月終わり、思うところあり美術館にいってみるなど。

東京都現代美術館で「アートと音楽」という展覧会をやってます。来週末で終わりということなので、そういえばということで久しぶりに足を伸ばしました。

結果、超絶かっこいい!とおもっていた池田亮治さんの作品をまた観れたのが収穫。数年前に同じ東京都現代美術館でやっていた展覧会に衝撃を受けた記憶がよみがえりました。

とはいえ、思うところありいった美術館ですが、そこで思うところは、美術館はやっぱり音楽を鑑賞する場所ではあまりないな、、、ということ。そういうことをまず考えます。

一般に音楽が時間によって得られる芸術である一方、絵画は空間によって得られる芸術であるためがまず思い当たること。もちろん、音楽はその音場・音場によって音がどう感じられるか、また、絵画は時を経ることによって生じる変化によって得られる事柄があることは事実。

しかし、美術館では、主に観るものを納める箱として機能しているため、Aという部屋でBという音楽を、あるいはXのとなりにはYという音楽を、という展示がなかなか難しい。また、それを実現しようとすると防音室をいくつも作るのか、とか、ヘッドホンを使うなどになって、美術館の建築形態では対処できない、どうもぎこちない感じになってしまうようにおもいます。
言い換えると、絵画なら、見れば見えるし目を閉じたら見えない、一方、音って、耳を塞がない限り文字通り耳に入るんですが、意図して耳に入れるというのが大変だなぁと思うのも、展覧会を通じて感じたことの一つです。

そういう意味では、音楽を空間に釘付けにするという試みがすなわち芸術なんだろうということが考えられます。その結果、視覚的に興味深いのは、音の絵画化や新しい楽譜の試みだったりしました。
現代においては録音技術があるために、音そのものの再現は決して難しくはなくなってきています。しかし、楽譜といった記号にもどづく音楽の伝達は、指示している音と指示された結果が果たして一致するのか?というのはまた別の次元の話であり、そもそも音楽というモノが過去から未来へと受け継がれている事実に対して、実はすごいことなのではなかろうか、という気持ちになります。

デザインの観点からは、図面やデータに基づいてモノが出来上がるというプロセスに似ているな、ということ。例えばコンピュータのデータはデータを再現して記号を認識するという意味においては同一ではありながら、データが物理的なモノになる、例えば年末に印刷するような年賀状というのは紙やプリンタといった印刷状態が異なれば異なったものになります。
同様に、音楽も構想するということと再現するということについては全然別の次元のアートが存在するし、その違いに対して新しいアイディアや観念が生じることに面白さがあると考えます。

だったら指向性スピーカーや音場のコントロールによる空間と音との関係でできる音の世界を作ってみたいなぁ、などと妄想する展覧会でした。また、音楽と映像などが関係する作品は空間がないとできないのが痛し痒しでそれに適した芸術館的な公共建築を期待しちゃいます。

そもそも芸術としての音楽とアートとの関係を考える、なんてことは日頃の生活をしている限りほとんどあり得ないことなので、そのトリガーがとして展示があるだけでやっぱり新鮮な気持ちになりました。

2月3日までなので、お時間あるかた(ほんとに”お時間”が必要なので)はオススメの展覧会です。

で以下は、おまけみたい、ではありながら、!、と思うことです。

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よいお年を2012

本年も大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いもうしあげます。

ということで2012年から2013年へと年が改まるわけですが、前回の更新からは選挙があり、原子力政策が推進側へと舵が切られそうな気配となりました。
新閣僚に聞く】茂木敏充経済産業相 原発再稼働「国が最終的な責任を持つ」 – MSN産経ニュース

12月27日の茂木経産大臣の閣僚記者会見では、着工している原発については建設容認、また、新設についても政治判断とするといった発言があります。
個人的には、新規着工や運転再開は、使用済み核燃料保管プールに空きがなくなる、核廃棄物処理についての計画も不十分という現状では現実的ではないと考えます。なので、商業的な原子力発電は廃止するべきと考えます。
しかし、原発ゼロを目指すというのも反対で、核廃棄物処理技術、廃炉技術や核種の転換技術を開発するにあたっては、原発というよりは原子炉を保持することは必要と考えています。
原子力発電というシステムを海外に輸出するとかいう意図もあるのかと思いますが、燃料処理や廃炉技術、核惨事への対応方法といったバックエンド技術を世界に輸出するということのほうが、世界への貢献としては大なのではなかろうかと考えます。

一年いろいろ考えたところの個人的スタンスは上記になります。

で、話はかわるようですが、年末にかけて日航123便の事故について調べものをしていました。というのも、あんまりよく知らなかったのですが、123便の事故は放射性物質輸送中におきた事故でもあるらしいといったことから。ちなみに、この放射性物質輸送については、結局どうなったの、というのが実はよくわからず、、、で、その調べ物の過程で、日航123便事故と、福島第一の事故は類似点があるぞ、とおもった次第です。
日本航空123便墜落事故 – Wikipedia

以下はおまけみたいなものなので、お時間ある方どうぞ。ここまでのかたは、ひとつ来年もよろしくお願い申し上げますー。


新年もので調べたらこんなものが、何だこれは!
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東と南の間のアジア その4 亜細亜核再処理公社

 

light
東南アジアにおける原発計画

さて、以上旅行してきての事だったんですが、両国に共通しているのは、原発はまだ稼働をしていないですが、これから原発保有を検討/計画しています。
マレーシアでは、都市部で発展していますが、地方を含めこれからも電力需要は増えていくものと考えられます。
また、ベトナムについては、停電を体験したように、電力供給は不安定です。さらに、まだまだ発展の余地がある地域だけにやはり電力需要は増えていくでしょう。
おもしろいことに、資料によるとベトナムは中国から電力を幾分輸入しているそうです。日本に住んでいるといまいちピンときませんが、大陸で国境を接している国同士は、当然ながら電力を融通する事が可能といえます。
従来は水力、火力という電源を用いていたけれども、安定的な電源確保という観点から原子力発電所を保有しようとすることもうなづけます。また、エネルギー安全保障の観点からも、電源輸入は一つのオプションとして保持しておくが、供給を絶たれても十分な余剰電力を準備しておくことは重要であろうと考えられます。
しかし、、、これらの計画ですが、放射性廃棄物処理については検討段階であり、研究炉の燃料等は補完しているらしいけれども、本格稼働時の処理については、まだまだ見通しが立っていないような状況に見受けられます。
噂レベルで資料は見つけられないのですが、ベトナムと日本との間で結ばれた日・ベトナム原子力協定において、提供する核燃料を日本に返還する約束になっていると、一部で話題になっていました。これは明文化されておらず、そんなことは無いと思われます。


マレーシアの明かり

当事国の考えてる事
しかしながら、別途調査時のベトナム側のベトナム放射線・原子力安全規制庁での調査で、下記の考え方が示された記述がありました。
「将来、極低レベルおよび低レベルの廃棄物は埋設処分する予定である。使用済燃料の処分は ベトナム国内では難しいため、原則的には返還したい。」
http://www.meti.go.jp/meti_lib/report/2012fy/E001879.pdf
86ページ

うむ、、、という感じですが、持ち込む以上持って帰ってね、という事かと思われます。これは、かつて米国からの提供された研究炉の燃料を米国に返還した例に似ています。つまり技術移転にともなってノウハウや資材を提供するけれども廃棄物の面倒も見るという立て付け。

どの国も原子炉を保有したい、また保有している国があるという状況で、各国が個別にその核廃棄物を処理するのを原則とするのは仕方が無いかとも思われます。

 

国際共同運用という一つのアイディア
ここで、いずれにせよ地球的、また、後世にわたって影響を及ぼす核廃棄物処理に関しては、国際協力によって技術や知識の共有化を計り、当代で最高の安全水準を維持する取り組みが望まれます。
さらに、ですが、一歩進めると、国際間で核廃棄物処理にあたるという事で、廃棄物処理を請け負うという貿易形態も、実は有り得るのは無いかと妄想もできます。亜細亜核再処理公社的なものの設立なんていかが。
すなわち、現在イギリスやフランスに委託している核廃棄物処理、現在六ヶ所村でも進んでいますがバックエンド処理プラント、これを国際共同運用する事によって、廃棄物処理による貿易なんてどうだろうかと考えます。

もちろん、これを実現するためには、民意形成、技術開発、国際協定等必要ですし、そもそも原発を使わないと発生しない問題ではあります。
日本に関して言うと、もう処理しないといけない核廃棄物はたくさんあるので、それは対処しなければいけない。一歩進めて、日本で引き受けますよ、といったら世の中どうなるだろうな?などと想像します。
こういう施設を、領有が問題になっている、竹島であったり、尖閣諸島だったり、人が住んでるのでアレですが広大な土地がある択捉なんかにつくったら、ぐうの音も出ないのではないか思います。

などとぼちぼちと考えてみたのですが、東アジア、東南アジアは遠くはない世界。関心は尽きません。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_noda/vietnam1110/pdfs/6.pdf
http://www.jaif.or.jp/ja/asia/malaysia/malaysia_data.pdf
http://www.tokyo-trade-center.or.jp/TTC/hands_on/deskrep04.pdf
http://www.jetro.go.jp/jfile/report/07000429/vn_energy_report2011.pdf